秋よ来い

また暑さが戻ってきて真夏のような装いと秋らしい装いが同居しているのを見るのは楽しいもんである。違うものが入り混じってる状態は健康的だ。気温の振幅が激しいと体調を崩しがちなものだが、歳を食うほどに気候で風邪をひいたりしなくなってる気がするのは付き合い方を覚えたということだろうか。
この2週間も粛々と仕事に勤しんでいた。もう一息で自分の手持ちの仕事は落ち着きそうなところまできている。自分の仕事で手一杯で人様の作品を見る余裕がなかなか無いのだが、また沢山のタイトルが発表されていて、その中からどの作品を見るか選ぶだけでも大変そうだななどと思ったりしている。
私の担当している作品も多数の作品の中から選ばれなければ見てもらえないのであって、それはもう半分運任せ。
逆に半分は確率を上げる方法はあるということではある。
沢山作品があるということは、見る側からしたらニッチでも自分の琴線により触れる作品に出会える可能性が高まるが、作品の鑑賞がみんなの共通体験となるような機会は低まる。これはどっちが楽しいのやら分からないが時代はずーーっと細分化へ向かい続けている。
我々が若い頃、おじさんたちは若者が共通体験を持たないのは気の毒だと言っていたが、気の毒かどうかは検討の必要があろう。

細分化と多様化は似ているようで違う。
作品の細分化のされかたに比べて多様化が進んでいるのか、全体像を印象で掴むのも難しくなっている。
なるべく多様に越したことはない、と思うが、それはほとんど見られない作品も存在することができるということなので贅沢なことである。
10年前に比べたらかなり多様になったのは間違いない。
しかし、多様性はがっちり経済の豊かさと結びついているので一瞬で消えていったりしがちである。
アニメ業界が儲かってりゃ、いろんな作品ができるという単純なことでもある。
しかし儲かってなくたって多様でありたいのだが、それにはどうしたらいいのか難しいところだ。

この間、我々より少し上の世代の仕事仲間と話していて、やはり80年台のアニメブームは凄かったのだ、と思わざるを得なかった。
なにが凄かったかといえば、作り手側の年齢と観客側の年齢が非常に近かったのだということだ。
当時は10代や20代前半で作画監督や監督をしている人たちがいて、もちろん30代以上のベテランの人もいたのだが、スタッフの平均年齢が圧倒的に若かった。
今は60〜40代前半がボリュームゾーンだと思われる。
80年代アニメが圧倒的に若者文化だったのは、作り手との距離の近さが大きかったのだと思う。
今は、基本的には歳上のスッタッフが若い人へ作品を提供するという構図だ。
これが悪いというわけではないのだが、歳の差はどんどん広がり続けるので、これをどう捉えるかは、ちと考える必要があろう。
若い人に向けたものは若い人が作った方が良いと思う。
それには若いスタッフを育てるしかないのだが、そもそも若い人が少なくなってきているのと、育てる環境が崩壊しているのが相まって、若い人が若いうちに活躍しづらい状況なのかなと思う。
それも10年くらい前に比べれば少し改善したとは思うのだが…。
膨らんでいく予算も若い人を前に立てにくくなっている一因かもしれない。

まあなんにせよ、多様性は豊かさなのである。

忘れがち

ここ一年くらいは仕事ばかりで、仕事をしているうちにやりたかったことも忘れて行きがち。とくにそれを気に病んでいるわけでもないが、あらゆることが知らないうちに過ぎ去っていって後で追いかけるのも思い出すのも難しくなっている。
きっとそれで他人をイライラさせたりもしているのであろうが、生来の忘れっぽさは、そのことさえ忘れさせてしまう。普段は気楽なものだが、たまに忘れていたことを突きつけられたり忘れていたことに気づいてしまったりすると途方に暮れたりはする。しばらくすれば忘れてしまうので、結局長い間憂鬱を感じるということもないのだが、神経質な人間を苛立たせ続けているかと思うと申し訳なくはある。

神経質な方がクリエイターとしては大成するのかもしれない。しかし、早死にもするし生きるのが大変辛いに決まっているので、気の毒である。鈍感とかいい加減な人間でも、それなりにできることと役割はあるのでそういうものは意識的に果たして行きたいとは思っている。

突然なんでこんなことを書いているかというと、今忘れてたもの、気づかなかったものに気づいて途方に暮れているからである(笑)
まあしかし、こんな気分もすぐに忘れてしまうので書き留めておきたい。

現在は3タイトル抱えていて、アイカツプラネットが動いていた時は、ほぼ4タイトルだったのでさすがに大変であった。
だいぶ忙しさは抜けかけているのだが終わりかけの時期が一番気が抜けて、体力も尽きかけで危ない。危ないというのは、うっかり体調など崩しがちということで私が倒れると、あちこち本当に大変なことになるので気をつけなければいけないのである。多少仕事の手を抜いてでも体調は気をつけないと、完全に機能停止してしまった時の対処は多少のスケジュールの遅れに比するものではない。
こうやって、この文章を書いているのもサボタージュの一種であるが、私のストレスは大分軽減されるのでコストパフォーマンスは良かろうと思う。

3タイトル動いている状態というのは平日昼間はほとんど打ち合わせや必須イベントで埋まってしまう。
それ以外の仕事はそれ以外の時間にやるという事になる。
アニメの演出家の仕事の半分くらいは打ち合わせなので、打ち合わせの多さはどうにもならない。特に監督は8割くらい打ち合わせが仕事と言っていい。
ずっと打ち合わせを減らす方法は無いかと考えているが、私などかなり人任せにする人間でもなかなかの量である。

どうでもいいが、これまでの記事はスマホで書いていたけどPCで書く方が圧倒的に楽ですね…。

アニメの監督が必須でやらなければいけない打ち合わせ、イベントの一般的な例としてはシナリオ会議(これは実制作に入る前にはほぼ終わっている場合が多い)、絵コンテの発注、演出の発注、キャラクターの発注、美術・色彩の発注、撮影の発注、他各種発注、発注したものが上がって来れば、その監修。
編集の監修(オフライン・オンライン)、音響監修(アフレコ・ダビング)、ラッシュチェック(上がってきた映像の監修)などである。
これに加えてレイアウト(下書きの絵)のチェックなど始めるといくら時間があっても足りなくなってくる。

はて、これで3タイトルも持ってるっていい加減な仕事してるんじゃ無いの?と思われるかもしれないが、まあ確かに几帳面な人からみればかなりいい加減な仕事の仕方かもしれない。
しかし、限られたスケジュールの中で監督が直接手を下せる部分はかなり少ない。それなりの力量を持ったスタッフに任せる方が自分が直接触るよりクオリティが上がることの方が多い。
人に上手く任せるのが良い監督である、と私は思う。が、これは世間のイメージとは違うかもしれない。宮崎駿のようにとにかく何でも自分で手を突っ込んで、それなりにこなす監督は非常に稀有で、一時期アニメーター出身の監督が何でもかんでも自分で管理しようと試みるのが流行った時期があったが、ほぼ失敗に終わったと思う。
絵的な華やかさを求めるためにアニメーター監督を起用して、細かな絵のコントロールにも監督が手を出す。そのためには、制作期間がかなり必要で、腕の立つアニメーターもかなり用意しておかないと、一人の人間の力でどうにかなるものでは無い。
昨今、アニメーター監督を起用して成功している作品は、アニメーター出身であっても分をわきまえている人を使っているとか、あるいは優秀なスタッフと制作期間をしっかり用意して監督の厳しい要求にも応えていける環境をどうにか作っているのだろうと想像する。

さて、私はといえば私が得意としている領域というのはあって、そこはなるべく自分でやるけど、得意で無いところは人に任せる、というのが得意であると思っている。
沢山のスタッフが皆、気持ちよく仕事ができるように良い環境を作れているかと言われれば、胸を張れるというわけでは無いのだが…。

監督業も色んな人に色んなことを言われがちな職なので、それにすべて応えようと思っているとすぐに気持ちは折れてしまう。
なので忘れることはとっても大事なのだが、忘れっぱなしも良く無いので、たまには忘れてたことに向き合わないといけないのである。

あー、ちょっと気が晴れた。