Blog

バスケはよく知らないが…

近所の映画館でスラムダンクがやっていたので見に行った。
田舎の映画館なので余裕で観られるだろうとたかを括ってギリギリに行ったら、ほぼ満席で危うく入れないところだった。
あんなに人が入っているのは滅多に観ないのだが……。
客層も特に原作を読んでいた人ばかりという雰囲気でもなく、老若男女偏りなくいてヒット映画の典型といった風情だ。
私も原作はほとんど知らず、連載のはじまった頃に少し読んでいたのでキャラクターの名前は多少判別がつくくらいの知識しかもっていない。
私なんぞが言うまでもなく面白い映画だったが、作りが変わっていたのでメモ的に記録しておく。

ネタバレ的なことも書くので読みたくない人は気をつけてください。

 

さて、冒頭は……なんせ地味だなと思う。
絵は素晴らしいものの華のある画面というわけではなく、あの二人が1オン1
をしているというだけで、原作知っている人であればエモいのかもしれないが、まずあの二人の関係が直ぐには分からない。
ポンとワンカット入る手洗い場の上に置かれたリストバンドの画が全編通して重要なアイテムになっているのだが、それも大して長く見せるわけでもなくサラッと映している。
直ぐにはわからない、というのはこの映画の特徴で監督の趣味でもあろうと思われ、とても良い効果を発揮している。
ここでリョータの名前は呼ばれるが、この映画の中で人物の名前が説明的に呼ばれることはない。
説明的に呼ばれることはない、というのはとてつもなく重要。
これも直ぐに分からなくても良い、という監督の明確な態度を示している。
普通、娯楽映画のシナリオであれば新しい登場人物が出てきたら、その瞬間か程なく名前を誰かに呼ばせてやる。
が、この映画ではそれを敢えてしていない。
それはスラムダンクだから原作がよく知られているから、それで良いという判断もあったかと思うが、説明的に名前を呼ぶことに対する拒否がハッキリと観て取れる気がする。
そして、映画が始まってしばらく音楽が鳴らない!
冒頭のムービングロゴの所にはギターが鳴ってるだけ…。
音楽と効果音、音の使い方は、この映画に特異な印象を付けている。
多分初めて劇伴が鳴るのは試合が始まってから(しかも大して盛り上げない)で冒頭のそれなりに長いドラマ部分は効果音だけで作られている。
これは効果さん的には相当に腕が問われるので、なかなかプレッシャーだと思うがよく出来ている。
効果音は全体に非常にいい仕事をしていた。
笠松広司さんの名前がクレジットされているので、よい音響の映画館で見ると随分印象が変わるかもしれない。
監督のインタビューをザッと読んだら音楽の付け方はお任せしたというような事を言っていたので笠松さんが音楽ラインを基本決めたのではないかと思われる。
正確に記憶していないが音楽が使われているのは殆ど試合のシーンだったのではないか。
普通、平場の長いシーンなどでは情感の音楽を付けたくなるものだが、あえてやらないという判断だったのだと思う。
ドラマ部分では音楽で情感、エモーションを盛り上げる様な事は絶対やらないという抑制の効いた態度は娯楽映画としては非常に勇気のいるものだと思うし、実際に来ている客層からすると見続けるのが辛くなるギリギリのところかなと感じた。

試合の間に回想が入る形で進んでいくというのも、話が分かりづらくなりがちなので娯楽としては非常に難しいが上手く見せられていたと思う。
リョータの縦軸の物語が原作を知らなくても他のキャラ含めキャラクターを魅力的に見られる様にしている。
初見の人でもキャラクターをある程度理解できるように回想を作っているのが面白いバランス。
ドラマは非常に抑制されていて玄人好みの日本映画といった風情だが娯楽的にもしっかり目配せされている。
それは前半はあっさりと終わっていく試合シーンの後半の見せ方で花開いていく。

後半の試合のシーンは、えげつない位に娯楽的な盛り上げを絵も音楽も達成していてラスト近辺の音楽の使い方はとにかくあざといし、ラストのシュートが決まった後の無音の長さも普通の人なら勇気がいる様な演出だが非常に効果的だったと思う。ドラマ部分の抑制が試合部分のあざとすぎる位のあざとさを際立たせていた。

ドラマ部分は本当に最後まで抑制が効いていて、人が何か成し遂げるには時間がかかるのだということを試合部分にも重なる様に描いていて非常に良かった。
エンドクレジットの後の画は監督の中に染みついた娯楽精神の表れで稀有なバランス感覚の持ち主だと思う。私が偉そうに言うまでもないが………。
見習いたいものです。

残された人間がどう生きるかというモチーフは「すずめの戸締まり」と同じなのだが見せ方が真逆で新海誠は非常に情動に訴えかける様な見せ方をしているのが好対象。たまたまだろうけど同じ様な時期に同じ様なモチーフが重なるのは何かを象徴している気もして面白い。

もう少し書けるけど疲れたのでこの辺で。
とにかく非常に面白かった。
こういうの書くときは自分のことは棚上げ……。

明けまして

クリスマスにやった先生は、話し出したらすぐ時間に収まり切らないのが分かってしまったので少し焦って分かりにくくなってしまったかもしれない。
反省。
声優の卵や、半分業界に足を踏み入れている子たちに向けて演出の仕事を説明しよう、ということだったのだが短くまとめるのは難しい。
リアリティについてなど結構むずかしいけど重要なことに踏み込んだのだが噛み砕ききれなかったかも。

年の瀬は色々やらなきゃいけないこと、やりたいことがあったけど疲れが出てしまったのか、あまり手がつけられずに終わった。
ぼやぼやしていると忙しくなりそうなので、事務的なことなどは早く片付けないと…。
本は数冊読めた。
今年は少しづつでも積読を崩したいものだ。

街は賑わいを取り戻した感がある。
元日から開けている店も多かったのは数年の売り上げを取り戻そうということなのだろうか。
明治神宮に初詣に行くと、人手はコロナ前に戻っている感があった。
お守りやおみくじなど売る場所は拝殿から少し離れた場所に設置されていて、まだコロナへの配慮がされていたが、境内の出店もあってほぼ通常営業になっていた様に思う。
おみくじ売り場で酒を片手にしたミュージシャン風のお兄さん達が「これ大吉とかないの?」と巫女さん姿の売り子に問うていたが、明治神宮のおみくじは和歌が書かれていて一年の指針にして下さいよ、というものなので占い風味は少ないのである。
大晦日から働いて帰りに寄ったという風情の人や、戯れている若い男女もいて賑わっていた。
表参道にも出店がずらりと並び、朝にはさすがに人手は少なかったものの昼くらいにはギッシリと人がいて繁盛している様だった。
元日から開けている飲食店は、ほとんど行列ができたいた。
千疋屋は、朝、店の前に大晦日に人が立ち入らない様にしたと思われる「立ち入り禁止」と書いた黄色いテープがべったり貼られていたが昼前には入り口前だけ剥がされて営業していた。
ほとんどの人は店には入れないので出店で何か買って沿道で食べていた。

今年は色々風向きが変わるのだろうが、私はどうだろうか。
先のことは何も決まっていない。
先のことは決まっていない、で四半世紀くらい生きてきたので怖いということも無いのだが、歳の近い人がポツリポツリと死んでいくのを見て私の残り時間はどんなもんかな、とはよく考える様になった。
とはいえ人生の残り時間など、おみくじを引いてみても分からないのだし考え過ぎても意味はない。
会いたい人に会う、とか小さな願いは忘れない様にしておけば実現できるだろう。
大きな願望は、もうあまり無いし実現の見込みも薄いので、あまり捉われるつもりははない。が、まったく無いわけでも無い。
なるべく出来ることを楽しく。

もう一息

アイカツ!の映画の方は、だいたい完成。
グレーディングも済ませDCPを焼いて試写すれば、あとは披露するばかり。
ギリギリまで作っている作品だとDCPを手で運ぶ…なんてこともあるみたいだが、そんなことにはならずに済みそうだ。
DCPとはデジタルシネマパッケージの略である。
竹芝のイマジカは出来たばかりなので、とても綺麗で心地よい。
五反田も何度も映画の試写などで訪れて思い出深いが、再開発されるみたいだ。
東京現像所も閉じフィルムを扱うところもだいぶ少なくなったんじゃなかろうか。

作品の完成が見えるとほっとしたり、嬉しかったりという気分が湧いてくる。
同時に、少し離れて見られるようになって気づくこともある。
製作中の作品の映像は更新されれば随時チェックするのだけど、映像を眺めていて特に意図したわけでもないのに違う作品で同じモチーフを同じ構図を使っているのに気づいた。
あれ?とシナリオを読み返してみると片方はシナリオに指定してあり、片方はないので私がアドリブで入れたらしい。
別に問題ないのだが、最近まで気づかなかったのが不思議だ。

各話の演出をたくさん担当していた頃は、違う作品で似たような話を担当することがあった。
夏であれば肝試しとか、海へ行くとか冬はクリスマスとか。
同じモチーフの話だと自分の好みが出てしまいやすい。
構図やら演技やら、放映時期の同じもので同じネタを担当するということはあまりないので(発注する時期が大体被るから同時に来ても受けられない)見てる人が気になることは無いと思うが、自分では覚えていることも多いので、そういえば前も同じようなことやったなと思いつつ、さりとて自分の好みから離れて別な事をやるのは難しい。
そして、何度も同じ事をやると上手くなるので似たようであっても数を重ねるごとに面白くは出来るようになると思う。

個人の好みではないけれど、現在製作中の「もののがたり」と「おとなりに銀河」はどちらにも家族というモチーフが出てくる。
家族が描かれているから引き受けた、とかではない。
引き受けた理由は別で、たまたま同じモチーフを扱っていただけである。
同時代に描かれた作品が同じモチーフを共有するということは良くあることかもしれない。
「エヴァンゲリオン」と「もののけ姫」はどちらも主人公の少年が呪いの様なもの
を背負ってるが、二人の監督が共謀したわけではなく当時の気分を共有していたということなんだろう。

自分の絵的な好みは嫌というほどわかっているが、好みだけで構図を選んでいるのではない。理屈に従うと作品によっては使える構図はかなり限定されてくることもある。
それが好みの様にも映ることはあるだろう。
いやしかし、好みで仕事を選んでいる側面もあるわけだし、好みと論理は簡単には区別できないかもしれない。

珍しく先生をやる

今月やる若い声優さん相手のワークショプ用にちょこちょこ講義の内容をまとめていた。
私は実演家ではないので、座学になるわけだが、まあまあ面白く聴けるのではないかというものになったかな。
アニメの制作の中でも演出家というのは何をやってるんだか分からないという人は多いのじゃないだろうか。
画を作るスタッフ向けにも演出の講座みたいなものをやっているところは少なくて(全くないわけではない)演出が自分の技術について語るという機会はあまりない。
演出を教えるとなると、作品の良し悪しを計る物差しはないから演出の良し悪しも作品によって変わって教えにくいものである…と思っている人も多いのだが、そんなことはなく基礎的な技術なんかは、どんな作品をつくるにせよ変わらなく案外と言語化できる。
しかしまあ、教えるのも教わるのもそれなりに時間もかかるし、なかなか演出の技術が伝わる機会は作りずらい。
かくいう私も師匠に手取り足取り教わったということでもないのだが、それでも師匠と言える人がいるので、それが大きな足がかりになった。
演出についての本もあるにはあるのだが、意外と分かりやすく初心者が学べる本は少ない。
富野さんの指南書なんかはアニメ関連の演出の本の中では比較的分かりやすかったような覚えがある。
覚えがあるというのは、読んだのが昔過ぎて記憶が定かでないからだが…。
アニメ関連ではないけど、平田オリザ「演技と演出」は演出の仕事を知るには良い本だと思う。
主に”演技を演出する”というタイトル通りの部分について語られているのだが、アニメの演出家は演技というものについて、誰かに教わった経験がある人というのは殆どいないと思うので、その一端を知るものとしては読んでみて欲しい、とこんなところで書いていてもしょうがないのだが。
そもそも本を読まない人が多いんだよね。
本を読め、と若い演出家には言ってはいるものの実践してくれているだろうか。

アニメ業界での教育の機会を作るのは難しい、が最近は少しずつ増えてはいて、特にアニメーターはあまりに不足しているので育てようという気運は高まっている。
演出家の方はイマイチ進んでおらず、なんとなくで仕事をしている人も少なくない。
そこは、も少し何とかしたいのだが。

話は戻って声優さんたちは、色んな演出家と仕事をすることになる。
アニメの場合は、音響監督が直接的には演出家として役者と向き合う機会が多いが、最近は監督が自分で音響監督をやっている場合もあるし。
何にしろ、作品ごとに違うに違う演出家と付き合うことになる。
まあ、色んなことを言われるわけで、それは大変だ。
多少なりとも演出家の仕事を知ることが、求められるものへの理解へ繋がると良いなと思っている。
演出家なんて勝手な生き物だからね…。
いや、私は勝手ではないつもりだが、そう見えることも多々あるだろうな〜。
広い心で受け止めていただきたい。

ついに年末

多少、余裕も出来たのでワールドカップを見たり。
スペインに勝つとは思わなかった。
「すずめの戸締まり」遅ればせながら見に行けた。
制作が大変そうな話は聞いていたが、そりゃこれを作るのは大変でしょうよ、と頷かされた。
ジブリの映画がしばらくなくて、代わりを担っていたのは細田さん、新海さんだが新海さんが一歩抜け出したような印象。
大勢が興味を持てるようなネタを上手く料理して新海さんらしさも残しつつ、面白くまとまっていたと思う。
要石側の理屈はもう少し説明したほうがいいと思ったが、目をつぶれるような作りには出来ていたんじゃないだろうか。
天変地異を題材に3本作ったので次は何を作るのだろう。
毎度、皆の期待に応えていくのは容易ではないが、新海さんは毎度進化を感じるので楽しみだ。
アニメの映画も最近は沢山あってなかなか追いかけきれない。
デルトロのピノキオとフィル・ティペットのマッドゴッドは何とか見に行きたい。
知り合いの関わっているものも全然見られていない。
最近は配信でも見られてしまうので、油断して余計見逃してしまう。
ディズニーの新作なんかも映画館では最近はあんまり大きく宣伝しなくなって配信で見せる方に切り替わってる感がある。
歳を食ったせいで最近は長い映画を見るのに少し身構えてしまって、3時間とかあると配信でいいかな、などとも思う。
すずめ…も、まあまあ長かったので構えていたが長さを感じず楽しめた。
ブラックパンサーの新作も見たいけれど、3時間くらいあるからなぁ…。
しかし、映画館で映画を見るのは好きなので時間があればなるべく行きたい。

年が明けたら、自分の映画「アイカツ!10th story」も公開だ。
映画といっても短めだし軽い感じで見られると思う。
ただ、完全に昔見ていた人のために作った作品なので初見の方にはお勧めしない。
が、なるべく大勢の人に見てほしいのも素直な気持ちで同窓会に行くみたいな気分で映画館に足を運んでくれるといいなと思っている。
10年経つと本当にいろんなことがあるもんだな、とつくづく感じる。
後日談みたいな映画は蛇足になりかねないが…なかなか10年経って作品を作らせてもらえるタイトルというのもないので、できる限りのことはやったつもりだ。
喜んでもらえる作品になっていると思いたい。
大ヒットはしないが、来た人は楽しんでもらえるんじゃないだろうか。
私がアイカツ!に関わる機会も、流石にこれが最後かなと思うし。

来年は何をやっているだろうか。
来年放映の作品が始まる頃には制作は終わっているので、次の仕事をしているとは思うが、特に何か決まっている訳でもない。
相変わらず流浪の人生。
楽しくやれればなんでも良いが。

今年も終わりじゃん

もう11月も半ばに入ってしまった。
仕事は落ち着いてきたものの、10月末は事件があったりで気分的には全く落ち着かない。
この一年放置してきた私的なことを片付けたいが、やっと本を読む時間が取れる様になったくらい。
来年の作品の準備はまだ続いている。
先日、とある作品の音響用の準備に途中経過の映像を編集する作業をしたのだが、とても良い出来である。
ま、最後まで作り終えてみないと本当のところは分からないのだが、十分すぎるほど期待させる出来だった。
そこの班は地方で制作していて、演出家も若くて、一人で全てやるのはこれが初めてということだった。
どこにでも凄い人たちは居るものだと感心するばかりである。
他にも、以前一緒に仕事をしていた演出家が監督となり凄い出来のPVを発表していたのを見て驚愕した。
正直今アニメ業界は空前の人手不足でグダグダなのだが、そんな中でも血気盛んに良いものを作っている若い人たちは素晴らしい。
昔なら、負けない様にしなければなどと思ったものだが最近は観客の様に楽しむだけで自分に引きつけて考えることはあまりない。
別に仕事に対してやる気が無くなったとか探究心が無くなった、というわけではない。
今作られている良くできたアニメの作り方の仕組みというか、こういうことをやっているのだな、という作り方の部分は大体は映像を見れば分かる。
しかし、だからといって真似が出来るものではない。
真似はできないが仕組みは、既存の制作手法の延長線上にあるので大体わかる、という印象だ。
良くも悪くも、日本の商業アニメーションは同じ制作手法で作っているので、私でなくとも皆んな何となく想像出来る。
単純な制作技術の部分はわかっても、人材集めみたいな部分が真似できないと、その凄いものの真似はできない。
技術そのものよりその土台となっている何かを実現させるほうが遥かに大変だったりする。
人の庭は、どんなに手に入れたくても人の庭なので、自分に引きつけて考えたり羨望したりはあまりしなくなってしまった。
あとは自分の興味が、目の前の仕事と少しズレているせいもある。

なんとなく、この後は色々潮目が変わったり、やりたいことがあったりで人生の転機みたいな時期に差し掛かっているのかもしれない。
そんな大袈裟なもんでもないのだが、人間、5年とか10年おきにそういう時期が来るものだ。
死ぬまでの時間はもう長くは無くなってきたので、体力もないし派手なことは出来ないが、なるべく楽しいと思うことをやっていきたいものだ。

数日前、若い人が仕事で書いたコンテにアドバイスみたいなものをつけて返してあげたら結構喜んでいた。
私のアドバイスは、なかなか分かりやすく的確なのである。
アニメ業界から師弟制度が無くなって久しいので、ひたすら独学で誰かのアドバイスを受ける機会は猛烈に減っている。
そういう若い人のお手伝いはちょっとやりたいと思っている。

あとはインディペンデントで何か作ってみたいな。

アバター見たことなかったので

先日、2に向けたリバイバル上映をやっていたのでアバターを3D IMAXで鑑賞。
流行りの映画は見逃しまくっている人生だが、しょうがない。
滑り込みだが見られてよかった。
サービス精神に溢れまくっていて楽しい映画だった。
アフリカンなエスニックイメージへの憧憬とエコの真っ直ぐな接続はどうなんだ?とは思うが、そんなことはどうでも良くなる程、美しくこんなものを3DCGで作っていたのかと思うと気が遠くなる。
2009年公開だから制作は十数年前なので、凄すぎる。
リバイバルに当たって手を入れたりはしているのかもしれないが、それにしても。
概ねは現実にあるものを下敷きにしているようだが、デザイン作業だけでも気が遠くなるほど膨大だったに違いない。
シダの歯が生い茂る森の中をキャラクター動き回るのだから、それだけでえーーーーっと思う難しさがある。
映画の冒頭の方は、わざと被写界深度を浅めに作って3Dの奥行き感を強く感じるように作ってあったが、そうすると却って画面が狭く感じてしまうなあ、とおもっていたら後半は、あまりやりすぎないように良い塩梅に調整されていた。
被写界深度が浅いと画面が狭く感じるというのも不思議だなと思うがIMAXで見ていても画面の端を感じてしまうのだから人間の視野がいかに広いかということの証左かもしれない。
3D映画を見た時のミニチュア感はなにが原因なのだろうと、ずっと思っていたがピントの合い方が肝なのかもという発見があった。
遠近法は鑑賞するのに適切な距離がある、という話も思い出したりして画面と鑑賞者の関係は時間が出来たら考えてみたい。
何が一番感心したかというと、シナリオだ。
セリフがすごく良いとか予想を裏切るような構造ではないけど、お客さんを楽しませるという意味で凄く丁寧につくられている。
サービス精神が旺盛なのだ。
娯楽ドラマの凄く基本的な構造として前半戦でネタを振って、後半戦で回収していくというものがある。
アバターは、それを丁寧にやっている。
ネタといっても大小で、時間をかけて明かされていくような謎などの大ネタと少し出てきた脇役のキャラクターなどの小ネタ、色々な仕掛けができる。
アバターのシナリオは前半戦で振ったネタを後半で丁寧に拾っているのと、これやったら面白いよね、と思いついたものをギリギリまで詰め込んだ感がある。
ラストのバトルにヒロイン(ネイティリ)が乗る動物とか、あ、これ拾うんだ!と感心した。
どこまで最初から計画されていたか分からないけど、前半に観客に振った視点(世界観)が後半で綺麗に逆転していくような作りにしてあって、それが上手く機能している。
しばらく前に見た羅小黒戦記(ろしゃおへいせんき)も同じ作りにしてあったな、と今思い出したが定番かもしれないが上手く作れば効果的だ。
羅小黒戦記も環境問題ネタなので比べると面白いかもしれない。
人型兵器が最後に使うのやシガニー・ウィーバーの出演はキャメロンのセルフパロディーで、ああいうのところもサービス精神の表れなのかなと思う。
振ったネタを拾うというのは簡単なようで、なかなか難しく思いついても予算や時間の関係で入れられないということは間々ある。
アバターもシガニー・ウィーバーのキャラクターのアバター(ややこしい)が部族に受け入れられるあたりは思い切りは端折っていた。あそこを描いたらあと30分か1時間伸びていただろうから仕方ないのだろう。
それでもかなり丁寧にあの世界で出来そうな面白いネタはしっかり掬い上げていた。
大ヒットした映画を十数年経ってから見て感心したも無いもんだが、すごく感心したし楽しかった。
予算のあるなしに関わらず、あのサービス精神は見習いたいものだ。
WAY OF WATERはちゃんと封切り時に見に行こう〜。

久しぶりに髪も切った

いよいよ仕事が落ち着いてきて、少しホッとしている。
猫の相手をできる時間も増やせそうだ。
しかし、仕事が落ち着く、終わるということは我々フリーランスにとっては無職になるということを意味するので、毎度どうしたもんかな〜と考えるのだが、やっぱり休みたい。
若い頃ほど金がないわけではないので、多少のモラトリアムの時間は確保できるだろう。
仕事もまあ、くれと言えばあるようなご時世なので十数年前よりは気楽な状況だ。
リーマンショックのあたりは仕事がごそっと減って肝を冷やした業界人もすくなくないのではなかろうか。
しかし、コロナ真っ只中の2021年の頭あたりは、さっぱり企画が決まらず暇を持て余していた。
あんなに暇だったことは仕事を始めてから経験したことがなく、今考えればなかなか悠雅な時間だった。
そこで暇した分、ここ一年ほど猛烈に働くことになったのだが、致し方ない。
とはいえ、クタクタになった。
昨今の企画は放映が始まる頃には全部作り終わっている、という作品が少なくない。
昔は、テレビで自分の担当している番組の予告を見ながら、やばい再来週うちの班のオンエアじゃん…とか思いながら仕事をしていたりすることはザラにあった。
デジタル化もそれほど進んでいない時代に良く間に合っていたものだな、とも思うが配信サービスなどの事情で昨今はそんなギリギリ納品はあまりない。(いや、また増えてきたという話も聞くけど…)
80年代は沢山の若い作り手がいて、それは人口の推移に伴い徐々に減っていき、いまだ80年代若者だった人たちに支えられているところは大きい。
しかし、皆んな歳を食って無理はきかなくなっているし、若い頃の無理が祟ってか早くに逝ってしまう人もいる。
そりゃ、昔のようなスケジュールではつくれないという訳だ。
良くも悪くもいい加減が通っていた80年代から90年代頭くらいまでは、作品のクオリティーの落差が激しかったかもしれないが、良いものはビックリするほど良く出来ている。
アニメに限ったことではないのだが、金があって人が沢山いた時代はこんなことが出来たのか…と驚嘆することがある。
今は極端にダメな作品は減ったように思うが、無茶苦茶すごいと思わせられるようなものも減ったかもしれない。
全体の作品量は膨大に増えたので、そこは本当に凄い。
相変わらずすごい才能の持ち主も沢山いるのだが、その人たちが一堂に会する機会はなかなか無さそうだ。
いや、一部の大きな予算を使える会社が凄腕スタッフをざーーっと集めていたりはするので、巷で話題のハイクオリティーな作品には、それなりにすごい人が集まっていると思う。
しかし、名もなき作品が突然すごいものを作ってしまうみたいなことは構造的に
出来にくい状況になったしまった。
今は潮目が大きく変わっている時なので、少し落ち着いたらまた面白いことが起こるかもしれない。
アニメは良くも悪くも(今のところは)若者文化だと思うので受け手と作り手の年齢差が近い方がいいんじゃないかと思う。
なので、才能ある若者をオジサンたちがうまく支えていくのが幸せな形なのかなと思う。昨今のリメイクブームを見ていると高齢者向けアニメもこれからバンバン作られる気はするが…。
はて、自分はどうしたものかと思うのだが、今は特に目標はない。
やりたいことが無いというわけでは無いのだが、仕事とは結びつかないかな。
若者に教えられることを教える、というのはしばらく前からやっているのだが、基本的には作品が動いている中でしか出来ない。
終わってしまえば次の仕事を求めて若者たちもバラバラに散っていくので、その間に出来ることをやる程度だ。
音楽のようにノウハウを求めてくるアマチュアがいるということはないので、私塾のような場所を作るのもなかなか難しい。
一年以上続くような長いシリーズをやっていた時は、教えていた人たちがそれなりに成果を出していた。
これからは、なかなかそういう仕事は無さそうなのでどうしようか…ということは少し考えている。
最近知り合いが50代で亡くなっていくので、私もいつまで持つかなぁ〜などと考えるが、自分のことは、とりあえずそれなりに楽しくやれればそれでいい、かな。

秋よ来い

また暑さが戻ってきて真夏のような装いと秋らしい装いが同居しているのを見るのは楽しいもんである。違うものが入り混じってる状態は健康的だ。気温の振幅が激しいと体調を崩しがちなものだが、歳を食うほどに気候で風邪をひいたりしなくなってる気がするのは付き合い方を覚えたということだろうか。
この2週間も粛々と仕事に勤しんでいた。もう一息で自分の手持ちの仕事は落ち着きそうなところまできている。自分の仕事で手一杯で人様の作品を見る余裕がなかなか無いのだが、また沢山のタイトルが発表されていて、その中からどの作品を見るか選ぶだけでも大変そうだななどと思ったりしている。
私の担当している作品も多数の作品の中から選ばれなければ見てもらえないのであって、それはもう半分運任せ。
逆に半分は確率を上げる方法はあるということではある。
沢山作品があるということは、見る側からしたらニッチでも自分の琴線により触れる作品に出会える可能性が高まるが、作品の鑑賞がみんなの共通体験となるような機会は低まる。これはどっちが楽しいのやら分からないが時代はずーーっと細分化へ向かい続けている。
我々が若い頃、おじさんたちは若者が共通体験を持たないのは気の毒だと言っていたが、気の毒かどうかは検討の必要があろう。

細分化と多様化は似ているようで違う。
作品の細分化のされかたに比べて多様化が進んでいるのか、全体像を印象で掴むのも難しくなっている。
なるべく多様に越したことはない、と思うが、それはほとんど見られない作品も存在することができるということなので贅沢なことである。
10年前に比べたらかなり多様になったのは間違いない。
しかし、多様性はがっちり経済の豊かさと結びついているので一瞬で消えていったりしがちである。
アニメ業界が儲かってりゃ、いろんな作品ができるという単純なことでもある。
しかし儲かってなくたって多様でありたいのだが、それにはどうしたらいいのか難しいところだ。

この間、我々より少し上の世代の仕事仲間と話していて、やはり80年台のアニメブームは凄かったのだ、と思わざるを得なかった。
なにが凄かったかといえば、作り手側の年齢と観客側の年齢が非常に近かったのだということだ。
当時は10代や20代前半で作画監督や監督をしている人たちがいて、もちろん30代以上のベテランの人もいたのだが、スタッフの平均年齢が圧倒的に若かった。
今は60〜40代前半がボリュームゾーンだと思われる。
80年代アニメが圧倒的に若者文化だったのは、作り手との距離の近さが大きかったのだと思う。
今は、基本的には歳上のスッタッフが若い人へ作品を提供するという構図だ。
これが悪いというわけではないのだが、歳の差はどんどん広がり続けるので、これをどう捉えるかは、ちと考える必要があろう。
若い人に向けたものは若い人が作った方が良いと思う。
それには若いスタッフを育てるしかないのだが、そもそも若い人が少なくなってきているのと、育てる環境が崩壊しているのが相まって、若い人が若いうちに活躍しづらい状況なのかなと思う。
それも10年くらい前に比べれば少し改善したとは思うのだが…。
膨らんでいく予算も若い人を前に立てにくくなっている一因かもしれない。

まあなんにせよ、多様性は豊かさなのである。