30年前の高畑勲【2025年08月04日】

ETV特集で高畑勲が火垂るの墓を作っていた時のノートが見つかったという番組をやっていた。
内容は大したことはなく関わった人間の感想的インタビューが主で、肝心のノートは脚本の準備稿らしいが詳しく中身に言及されている訳でもなかった。
空襲にあった体験を岡山で講演している映像があって、それを長く見せてくれた方がよっぽど良かったと思う。


しかし、あらためて火垂るの墓を制作していた時の高畑の歳を知り今の自分とほぼ同じ年齢ということと、私が出会った時、彼はちょうど還暦くらいだったので制作から10年も経っていなかったことに驚きを覚えた。

その間に、おもいでぽろぽろ、ぽんぽこ、と2本の映画を制作しているので2年に1本の大作長編映画を作っていたことになる。

それはすごく働いていたということだ。
今の自分の体力を思うと、かなり過酷に思える。
30年前の高畑は確かに元気だった。

それとは別に現状の人手不足の状況では、そのペースでまともな映画を作るのは不可能だろう。

若い作り手が沢山いてすごい時期だった、ということだ。

火垂るの墓が上映された頃は高校生で友達と見に行ったが、比較的封切り直後に見に行っているはずなので、節子を火葬するあたりは動撮だったのだと思う、が記憶にはない。

リアルであれば、おばさんの家を出るなどということはあり得なかった筈で心中物と思って作ったという様なことを高畑は話していて納得した記憶がある。

30年前、高畑が先生をやっていた塾の最終日、就職したやつはいるかと聞かれ私ともうひとりふたり手を挙げた奴がいた気がするが、どこに就職したのかなどしつこく聞かれて、決まらなかったらジブリで拾ってくれたんかな?と思ったりもしたが、ジブリに行ったとて演出家には成れなかっただろう。

ということで、番組内容はともかく懐かしさを感じた。

昨日は中野でロロの30分ほどの短編芝居をいつもの内古閑さんと観た。

短編の割にはロロっぽくとても良かった。

全然違う時間軸の会話が噛み合い舞台上で重なるのは三浦節で舞台ならではの面白さがある、と毎度思う。

歌も入って、ハンサムな大吾を思い出した。

もう板橋駿也がいないのが残念ではあるが。

終わった後は少し2人でご飯。

楽しかった。
少し元気が出た。