重なるものは重なる8月11日

絶対に洗濯したいものがある、という時に限って洗濯機は壊れるは激しく雨が降るは…でなんでかなぁと思わなくはないが世界はそういうもんだよな。

猫たちは仕事をし始めると構え構えと叫び出すが、いざ遊んでやろうと猫じゃらしを持つと寝始めたりする。

今も横で三毛猫が鳴いている。

梅雨があんまりなかったから雨が降るのは歓迎だ。尋常でない暑さを少々和らげてくれた。

買っておいた葡萄を夕食のあと食べる。

食事の後だと一房食べるのは、さすがに重く…しかし全て平らげてしまい、猛烈な眠気に襲われてしまう。

食べるととにかく眠くなるというのは、まあ健康なのだろうか。

胃に血流が集中して脳味噌に回している余裕がないわけだが、血液が仕事を終えると脳も活動の許しを得るわけで変な時間に目が覚めたりすることになる。

お酒を飲んで何かを食べるとしばらくするうちに必ず眠くなるので、よく寝ているところを写真に撮られて見せられる。

まあしかしお酒を飲んで食べるという快楽を半減させるのはしのびないので、食べてしまうし、眠くもなる。

先日、何となく眠れなかったのビールを飲んでいて何となく映画が見たくてAmazonプライムで新藤兼人の「濹東奇譚」を見た。

昭和初期あたりから戦後くらいの話で正面切ってはあまり出てこないが戦争の影を描いていて、今興味のあるところと重なる。

ウクライナの戦争を見ていて何となくウクライナ関係の本を読んだり、辻田真佐憲「戦前の正体」、宮崎駿「君はどう生きるか」とかたまたま戦争について考えることが多かった、夏だからというのもある。

中公新書の「物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国」黒川祐次 著は、独立前のウクライナを知るのにとても良い。

濹東奇譚は、戦前の価値観みたいなものが老いていく荷風に重ねられて荷風が老いを認めて女を諦めていく様がとても良い。

濹東奇譚は売りはエロだったのだろうと思うが、大島渚の愛のコリーダと比べると愛のコリーダの方が圧倒的に華やかだ。

しかし濹東奇譚の方が何とも言えない情感が描かれている。

お雪の女優さん、墨田ユキがとても良い。

老いを描いている作品は若い頃見ても全くピンとこなかったが、今は実感と共に分かる様になった。

老いについてはともかく、戦争については、もうしばらく考えたり調べたりすると思う。

8月に入ったなあ、6日。

どうにも暑い日が続く。

先日打ち合わせに行った時に日傘を忘れてしまって(帰りは夕方だった)ますます外に出るのが億劫だ。

とはいえ、夏はいろんなイベントがやっているので行きたいなあとも思う。

今年の前半は見たい映画をほとんど見られなかった。

後半は少しは見いけると良いのだが…。

バービーはマーゴット・ロビーとグレタ・ガーウィグなので、何はともあれ見たい。

少し前に半分仕事の資料、半分趣味で買った本、「語り芸パースペクティブ」(玉川七奈福:編著)は大変面白い。

頭の篠田正浩監督の義経の話から、節談説教、瞽女唄、説教祭文など知らない語り芸の話や、落語でも江戸と上方の違いなど興味深い話が沢山のっている。

実際には実演込みで話を聞くというイベントの書籍化なので実演が見られないのが残念なのだが、それでも十分読む価値がある。

書籍にイベントのダイジェスト映像へのURLも載っているので片鱗は楽しめる。

活動写真弁士も語り芸の一つだろうし、日本には沢山語り芸があるらしいので色々見てみたいものだ。

仕事の方は残念ながら実現しなかったので多少集めた資料は無駄になったのだが、まあどこかで供養する日もくるだろうと期待しよう。

海が見たい

暑くて暑くて買い物に出るのも躊躇してしまう。

仕事で外に出ることが極端に減ったので助かっている。

自分が子供の頃は、暑い日でもせいぜい30度くらいだったものなぁ。

ほんとに温暖化してるんだな、と。

暑くてマスクするのもしんどいので、そりゃあコロナが流行るのも仕方ない。

庭木は元気に枝を伸ばすが日中に手入れするのはなかなかしんどい。

しかし、果物は大変美味しく感じる。

桃、スイカ、葡萄…。

果物じゃないが、麺類も。夏の素麺は最高である。

私は日傘を愛用する様になって、しばらく経つがたまに男性が日傘を差している姿も見かける様になった。荷物にはなるけどとても快適。

コロナだったから、という訳でもなく元々出不精なので旅行もあまり行ってなかったが、これだけ暑いとすごく海が見たくなる。

子供の頃は海のそばに住んでいて泳ぎに行かなくなっても海を見ながら歩くのは気持ちの良いものだった。

新潟の海は夏でも雲があることが多くて、爽やかさはあまりないかもしれないが潮の匂いが流れてくるのを感じたり、砂浜で遊ぶ人を眺めたりは楽しい。

日傘を差して海を見ながらビールを飲めたら最高だ。

仕事の方は絵コンテをちまちまと描いているくらい。

映像が完成するのは随分と先になると思うが。

少し落ち着いた…かな

おととい、とある作品のコンテを終わらせて一息ついている。

そもそもそんなに忙しくないのだけれど、色々あって精神的に疲れていたのと体力も落ちていて予定より仕事を引っ張ってしまった。

ちょっと私へくる仕事的には変わっていて大変な内容だったので、それも時間がかかった原因ではある。

大変といっても、ほとんどの仕事は大変な話数を振られるのでいつものことではあるのだけれど。

私も自分が監督の時はベテランに大変な話を拾ってもらって助けてもらっているので、私のコンテで監督の仕事が少し楽になるのなら幸いである。

ここしばらく、以前付き合いのあった若い(といっても三十半ばくらいだけど)演出家の監督作を恩返しもこめて引き受けていた。

最近は三十半ばになれば(もっと若くても)監督のチャンスが巡ってくるようで良いことだ。

三十代は技術もそれなりに身に着いて体力もそこそこある、のでそこで何か作れるチャンスがあれば良い作品が作れる確率も上がる。

我々が面白い作品に出会う確率も上がるという訳だ。

「君たちはどう生きるか」を見た。

不思議な映画だな、と思った。

わかりやすくもなく、わかりにくくもない。

私は取り上げられてるモチーフとして、少し理解できたのは戦争とペリカンくらいか。

他にも理由があってモチーフが選ばれているのだろうけど、私にはその意味するところは定かでない。

わからないからと言って物語を理解するのに苦労する訳でもないので構わないのだが、それを選んだ理由を知りたくなる様な作品だった。宮崎駿に興味のない人は知りたくもないだろうが、子供の頃から作品に影響を受けてきた身としては気になる。

私的なイメージをあまり説明せず繋いでいる様で、大筋の物語自体は分かりにくいと思わないのだが、分からない・分かりにくい部分が何故そうなっているのか、それが知りたくなる様な作品と感じた。

これが最後の長編だろうと思うから、余計知りたくなったのかもしれない。

高畑勲の遺作「かぐや姫の物語」と「君たちはどう生きるか」は対照的だ。

かぐや姫は、とても分かりやすい。

高畑勲という人は一貫して分かりやすい作品を作っている。

宮崎駿は分かりにくい、ということが作品を重ねるごとに明快になっていった。

最後(かもしれない)映画を作る時、何を作るのかというのは興味深い。

宮崎さんは、まだ頑張りそうな気がしないでもないけど、前作からの時間を考えるとさすがに難しいかな。

とにかく「君たちは…」が無事完成したことを寿ぎたい。

私もこの先どんな仕事が出来るのかな…と毎日考えてしまう。

しばらく暇というのは決定している(笑)

もののがたり第2章

今日は令和5年7月03日、今日の深夜から「もののがたり」の第二章がスタート。

作り終えてからは少し時間が経ったので、やっとという思い。

後半戦は戦闘のシーンが多かったのでスタッフたちは大変だったかと思う。感謝しかない。

二章から登場の爪弾は土井美加さんが演じてくれている。

土井さんの演技は素晴らしく迫力があり、聞いていて楽しかった。

参加してくれていた同世代の演出家は土井さんのファンだったらしくテンション上がっていて面白かったのだが、それもそのはず、我々世代であれば超時空要塞マクロスの早瀬美沙というキャラクターでお馴染みだからだ。

私も当然、心の中ではわくわく。表には出さなかったけど。

他の役者さんたちの芝居も当然素晴らしく音響作業はいつも楽しかった。

お客さんにも楽んでもらえることを願う。

最近は作り終えてから放映という作品も増えたのだが、知り合いの監督が作り終わったら早く見せたい、と言っていてその気分は分かる。

作るのには放映期間の何倍かの時間がかかっているので放映を見ていると、あっという間だなぁと感じてしまうのはアニメ制作者共通の感慨だろう。

花火のように一瞬で消えてしまうのが昔のテレビアニメの醍醐味だったのだが、いつの間にかビデオなどで何度も再生されるようになり、最近は配信などでさらに再生の機会は増えている。

苦労して作った作品の見られる機会が増えることはありがたい。

とはいえ、配信も常にやっているというわけでもないので見られる時に見ていただきたい。

はじめは無声

先週金曜に第3回カツベン映画祭で山崎バニラさんと片岡一郎さんの活弁を新宿武蔵野館で観てきた。

活弁はそれほど観ているわけではなく、以前に仕事でご一緒した山崎バニラさんの公演は何度か拝見している程度。

バニラさんの活弁はコメディー作品を扱うことが多いので誰が観ても入りやすく楽しいと思う。

各回楽しそうで時間があれば1日見たかったけど、そうもいかなかったので、バニラさんと、ずっと観たかった片岡一郎さんの回を選んだ。

活弁は活動写真弁士の略なので本当は動詞では無いのだろうけど、「活弁を見る」とか「活弁する」で通じるみたい。

片岡さんは口上で「説明は片岡一郎」と名乗っていたが、弁士が映画につける語りを「説明」と言っていたらしい。

活動写真弁士については、片岡一郎さんが書いた「活動写真弁史」に詳しい。この本がべらぼうに面白かったので片岡さんの活弁はとても見たかったのである。

「活動写真弁史」は映画好きなら間違いなく面白いので読んでほしい。

無声で映画を見るというのは、昔は映像を自分で作るということになれば先ず誰でも体験するようなことだった。

だった…というのは最近はスマホなどで簡単に音付きの動画が撮れてしまうので。プロの世界じゃないと無音で映像を見る機会は少ないかもしれないと思うからだ。

フィルムで映像を作るとき音がないのが当たり前なので初めて自分が撮った映像を見るときは無声である。学生時代、自分が撮った画が映写機がフィルムを送る音をバックに壁に映るのを見てえも言われぬ感動が湧いたのを覚えている。

私が初めて無声映画を見たのは、たぶん高田馬場にあったACTミニシアター。

この映画館、椅子が無くて寝そべって観る!というスタイルで無声映画やマニアックな作品をたくさん上映していた。寺山修司の短編とか、戦艦ポチョムキンとか…。

まあ寝ます。

ポチョムキンとか何度も見てるけど果たして通して見られた記憶がない。

でもマキノ雅弘の「雄呂血」とか面白かったのは、ちゃんと起きて見られてたと思う。

学生時代に無声映画はちょこちょこ見たのだが、弁士付きで見たことはない。

私はバスターキートンの映画が好きだったので当時こぢんまりと行われていた上映会にも行ったが弁士付きで見たことはなかった。

当時(90年代あたり)、弁士で知っていたのは澤登翠さん位で私の記憶では弁士付きで見られる機会はかなり少なかった様に思う。

古い映画でなくとも学生の映画は音をつけるというのは、なかなかハードルが高くて、ほとんど無声の映画は多かった。無声の映画でも面白いものは面白いのだが、つまんなければ圧倒的に眠くなる。面白くても眠くなることはままある。

音が入ると俄然血肉がつくというか実体を伴い身近に迫ってくる感じがするのは随分長く映像を作ってきたけど変わらない。

昔の名作無声映画も、やっぱり弁士付きで見た方が圧倒的に面白い。とバニラさんたちの活弁を見て思う。

まずなんたって解りやすい。

そしてバニラさん片岡さんの声はグッと心を鷲掴みにする響きがある。

もちろん良い映画ありきだと思うけど、活弁は圧倒的に映画を生き生きとさせる。

今まで見た無声映画を弁士付きで見直したいよなー、とつくづく思う。

また活弁聞きに行きたいなー。

実写とアニメと

おとなりに銀河は実写版とアニメ版と同時期の放送となったわけだが、実写版は一足早く終了。

まだ全部見られていないものの、自分の関わったアニメ版とのアレンジの違いなんかも楽しめてとても面白かった。

少し前にアイカツプラネット!で実写の現場を見せてもらったので、手がかかっているところとかアレンジの理由なんかもある程度分かって、作り手目線でも楽しめた。

装飾という部署の仕事ぶりがとても素晴らしかったのが個人的なツボ。

私も仕事で関わるまではよく分かっていなかったのだが、美術と呼ばれる部署は基本的にはセットなんかの設計だけ。実際に作るのは大道具さんで、部屋の中に置いてあるものとか役者が手荷物以外の全てのものは装飾と呼ばれる仕事をする人たちが作る。

作ると言っても1から10まで手作りというわけではなくて既製品と作り物を組み合わせて作品の世界を作っていく。

夜ドラのおとなりに銀河の場合だったら、キッチンの作り込みが素晴らしいなと思った。映る回数が多いので手をかけたということではあると思うけど、生活感の溢れる感じで物が置かれていて、あの感じをアニメで作るのは相当に難しい。

アニメの場合は、ありとあらゆるものを描かなければいけないので、ごちゃっと物がたくさんある空間はとてもカロリーが高い。実写でも、その手間は実は同じではあるのだけど、アニメの方が仕事のカロリー的には高くなってしまう気がする。

なので、ああいう空間作りを見ると羨ましいなと思う。

アニメの得意なのは、既製品にないものを作れること。

実写版では、やはり漫画の中のキッチンとは大分違う形の部屋になっていたが、アニメはほぼそのまま再現している。

実写ドラマで同じことをやろうとすると、まず部屋のセットを作って漫画に合わせて調度品を全部作って……こうなると仕事のカロリーが一気に跳ね上がり、予算と時間がないとちょっと無理みたいな話になる。

アニメは、そういうフルスクラッチな作業は比較的得意だ。

でも、実写もアニメも作業の物量が多くなれば大変なのは同じで重なる部分も多い。

実写もアニメも得意なところ不得意なところがあって、制作陣は最大限自分たちの使う表現方法の良さを活かして作っていくので、そんなことを気にしながら見るとまた違った楽しみ方ができるかもしれない。

「おとなりに銀河」アニメは1話が無料公開中なのでお時間ある方は是非。

向いてるとか向いてないとか

小学生の姪っ子が絵で賞をとったらしい。

絵の写真を見せてもらったところ、ずいぶん上手。

もともと絵を描くのは好きだったみたいだけど、だいぶ前、4、5歳の頃だったか…絵を描きながら描くのは好きだけど自分の絵は上手くないのだ、と言っていた。

私は驚いて、そんな事ないよと返したと記憶している。

多分誰か、大人か友達かに上手くない、と評された事があるのだろう。

当時の絵は子供らしいかわいい絵だった様に思う。立体を正確に捉えてる様な写実的な絵では当然なかった。

絵が上手いとか、下手というのを決定するのはそう容易いことではない。

プロにでもなって写実的な表現を求められて出来なければ、それは下手と言われる。

しかし写実的な表現だけが絵画ではない。

写実的な表現が不得意でもプロで仕事をしている人はいるだろう。

子供の描く絵に上手いとか下手とか評定するのは、相当に難しいと思う。

思うけど、子供の絵を簡単に上手いだ下手だと評価してしまう人が沢山いるだろうことも想像に難くない。

私は子供の頃に絵を褒められた記憶ははなくて、美大受験も落ちまくったし成長してからも下手だったのだと思うが、しかしやっぱり歳を食うほど絵の上手い下手というのは単純には評価できないよねと感じる。

凄く大雑把に言うと描き手が自分の表現したいものが表現できれば技術というのは、それで必要十分なので写実的な絵を描きたいと思わない人が透視図法や立体の表現の技術を持っていなくても問題ないということは当然ある。

アニメーションのスタッフでもアニメーター(上手い人でも)が一様な技術を持っているわけではないし、役職によって求められるものも変わるし何が必要な技術なのかを判別するだけでも結構難しい。

アニメーターの場合、写実的な表現を求められる事が多いのでそれを可能にするための技術が基礎教養として求められるが、キャラクターなどデザイナーの様な役職になった時、全く違う技術が求められたりする場合もあるし技術が邪魔して感覚に寄り添えないということもありそうだ。

漫画の絵の面白さは感覚に重きを置いて描いても成立するところだと思う。

基本一人で描くものは自分の感覚が絵柄を串刺してくれるということが可能だから。

アニメの場合は沢山の人間が同じキャラクターを描かなければ行けないので感覚的な癖の様なものを旧友するのは難しい。どうしても大勢の人間が共有しやすい様な平均化の作業が必要になる。

漫画家の絵にしてもアニメーターの絵にしても必要とされる技術の差異はあっても、それは絵の上手い下手とは別だ。

芸術と呼ばれる様な分野の中で究極的に上手いとか下手とか決めるとするならば表現したいものが表現できているのか、そうでないのか…位しか判断基準は無いように最近は思う。が、表現が達成されているされていないの判断をするのも容易でないので、やはり上手い下手を決めるのは難しい。

技術の部分であれば上手い下手を決め安いとは思う。

立体をうまく捉える事ができるか、透視図法を理解しているか、とか。

技術は、基本的には共有可能なものとして作られているので比較もしやすい。

しかし、そうでない表現の本質的な部分に分け入っていくには批評の様なややこしい分析が必要になるだろう。

子供の絵にそんな面倒な批評が必要な訳でもない。

大人のアドバイスが必要な場面があるとしたら、子供がリンゴを描きたいと思っていて、しかし自分の描きたいと思っているイメージと差異がある場合とか、他人に見せた時、自分が表現したい物が伝わっていなくて傷ついた時とかだろうか。

後者は余計なお世話になる場合もあるが…。

姪っ子に私の言葉が響いたのかどうか定かでないが、自分が楽しいと思う事を楽しそうに続けているのは何よりだ。

好きこそものの上手なれとも言うし、人生の楽しみを一つでも多く持っているのは良い事だよ。

観劇からの感激

先日、ロロ『BGM』を見た。

ロロは、ここ何年か追っかけていて公演があれば大体見ていると思う。

コロナの前は他の劇団もたまに見ていたけど、落ち着いてからも忙しかったこともありロロ位しか見られていない。

しかし、演劇もライブも元の状態に戻れそうなので嬉しい限りだし時間があれば色々見に行きたい。

ロロを初めて見たのは「ハンサムな大悟」だったかと思う。

板橋駿谷さんは強烈に印象に残ったが、全体として自分が普段やってる仕事に近い事をやっているのに表現として全く違うし思いもつかない様なことをやっているのが面白くて嵌ってしまった。

三浦直之さんの劇作、演出は色々なものの境界を曖昧にする、又は同じレイヤーというか同じ次元に重ねて見せてしまうというところが強烈に好きだ。

時間や場所や個性や現実と非現実、普通重ならないものを重ねて見せて、見えないものが見えてくる。

私の作っているアニメーションは、実はそうしたことがとても得意な表現技法なのだけど三浦さんの様なことをやっている作品はあまり見かけない。無いわけでは無い。

舞台ならではのシンプルな美術(舞台装置)の中で時間や様々なものが重なり変化していくのは不思議だが自分の中の観念の世界を感じて自然でもある。

劇作の中で扱われる題材は根の部分はそれほど突飛なことは少ない、と思う。突飛な世界でも地に足がついている感覚がある。それは役者の力量のおかげでもあるのかもしれないが。

なのに夢の様な魅力的な世界が見えてくるというのは素晴らしい。

特に今作『BGM』は友達の結婚式に行くという、ただそれだけの事が描かれているだけだ。だが劇的だ。

日常が魅力的に見えるというのは素晴らしい、自分もそういうものを作りたい、と思っていることもあって『BGM』はとても好きな作品だ。

今回は再演であったので筋は概ね知っていたが、思っていたより雰囲気が変わっていた。音楽が変わったのが大きかったのかもしれない。

表現技法の特質をうまく使った表現というのは、やはり個性的で刺激的だし三浦直之の舞台は、いつもそれを明快に見せてくれて好きだ。

しばらくはゆるりと

ゆるりと仕事再開。

しばらくは絵コンテマンとして活動することになりそう。

全く知らない監督の仕事はあまり来ないものではあるのだが、自分ではない人にコンテを提供するときはどういうスタイルがいいのかなという探りを入れたりしてなるべく監督のスタイルに合う様に考える。

とはいえ、他人と同じものは絶対に描けない。

絵コンテだけの仕事を請け負う様になってずいぶん経つけれど、真似しずらい理解しずらい微妙な表現はオーソドックスに作る様にしている。

絵コンテにオーソドックスも何もあるのか、と言う向きもあるかもしれないが有る。

キャラクターの捉え方(人物造形)お話の捉え方が極端に間違っていなければ、あとは基本的な映像文法を守ったあげるだけで監督は絵コンテの修正が圧倒的に楽になる、と経験的には思う。

キャラクターとかお話の理解を除くと、技術的な違いが大きく出る部分は3つある。

一つはイマジナリーラインの作り方。

一つはカメラの高さ。

一つは話題の対象を写すかどうか。

一番面白いなあと思うのは、話題の対象を写すかどうか、のところだと思う。

話題の対象とは何かというと、例えば何か会話をしている人物が二人いたとして、そのうちのしゃべっている人を写すかどうかみたいな事だ。

そんなの普通しゃべっている人がいたら、その人を写すでしょと思うかもしれないが意外とそうでもない。

しゃべっている人の話を聞いている相手はどんな顔をして聞いているのか、という事が重要な場合はその表情を写すということがあるが、この場合は一般的な話題の対象を写しているという認識で良いと思う。

例えば、長いしゃべりの時に窓を写すみたいな演出はアニメでは非常に良くあるのだが、私はこれは話題の対象を写さない演出に分類する。

これが悪いというわけではないのだが、外す必要がないのに外している場合や、外してはいけないのに外してくる人もいて、さて何故だろうかと考える事が時々ある。

話し手の表情を想像させる、セリフに集中させる、それぞれに色々理由があってやっていることだろうと思うのだけれど憧れた作品からの影響というのも強くあるのじゃないか。

エヴァ以降といって良いかと思うのだけれど、深夜アニメなどで対象との向き合いが少し変わっている様な変わった演出が流行っていたと思う。

その影響を強く受けている人は結構いて、その事に自覚的ではない人もおり、自覚的でないと作品によっては全然合わない場合がある。

最近の主流は割とオーソドックスなスタイルに戻っているという印象を私は持っていてオーソドックスはやはり出来た方が良いと思う。

オーソドックスなものは見飽きてつまらないみたいな時代は終わってしまってオーソドックスなものしか見られないような時代になってしまった気もして、それはそれでどうなのよと思うけど伝統の中で育まれた王道なスタイル、方法論はやっぱり重要。

大作映画も基本的にはオーソドックなスタイルに則って造られている様に見受けられる。

まあしかしオーソドックスが体系的に教えられている場所、というのが今はハッキリと存在していないと思うので伝統が教えられる場所があるといいね。

ハッキリ教えられてないのに、やっぱり存在する伝統問いのも凄いもんだと思うが。