自分ごとでも嫌なことでも無いのだが、とある事があって今週はずっと憂鬱な気分だった。
しばらくは引きずってしまいそう。
久しぶりにアニメ関係の本を買った。
「TOROYCAアニメ撮影テクニック」「井上俊之の作画遊蕩」「アニメーション動きのガイドブック」
TOROYCAの本は最近のアニメ撮影の雰囲気を知るのに良い。
メインの著者TOROYCAの取締役でもある加藤くんは私の初監督作の撮影監督でもあり、今や数々の作品の撮影を担当している。もう一人、一番担当記事が多い津田くんは最近の新海誠作品の撮影監督でもある。
基本的にかなり作り込むタイプの撮影。
もう少しぱっと見は分からないような処理を重ねるタイプの撮影もいる。
売れ筋の作品は撮影で作りこんでいるものが多い印象なので主流と言えるんじゃなかろうか。
本には細かなプラグインなども記載してあるので本業の人が見ても参考になりそう。
私はよく分からないので雰囲気だけ味わった。
井上さんの本は、遊蕩というには極めて真面目にアニメのレイアウトについて語っているのだけど、井上さんの語り口が熱っぽくてとても良い。
井上さんのようなベテランが今だに熱量高く仕事に対峙しているというのは胸が熱くなる。
本の中で提唱されているレイアウトキーポーズ制度。
昔のレイアウトはシートにはラフなタイミングしかないかタイミングは書かれておらず、原画のように細かな演技は描かれておらず背景の発注に必要なキーになるポーズだけ描かれているだけだった。
現在はラフ原画がレイアウトの時に描かれるのは当たり前になっていて、しかしそれらを作画監督が修正するのは難しいし不可能なのでキーポーズだけにしてレイアウトを描き、作画監督が修正したものを原画マンに戻した方が効率的、大雑把にいうとこんな事だ。
昔は、その通りのシステムだったのだが、幾つかの理由からこのやり方は現在は使われていない。
一つ大きな問題は音響スケジュールとの関係性。
全て絵が完成してからアフレコ以降の音響作業が行われるようなスケジュールなら、上記のレイアウトキーポーズシステムは十全に機能する。
しかし、絵のスケジュールの遅れから絵が完成しないまま音響作業に突入せざるを得ない現場は昔から沢山あった。
特にテレビアニメーションであれば放送日に間に合わせるために絵と並行で音響作業を進めなくては行けないという事がよく起こった。
これが90年代後半に深夜アニメが増え始めてから、スタッフが足りなくなっていきスケジュールは劇的に悪くなっていく。
せめて、原画作業まで終わっていれば音響作業は何とかならなくも無いのだが、それも出来なくなっていき、レイアウト撮と言われる状態で編集から音響作業をしなければならなくなっていく。
そこで問題になるのがキーポーズしかないレイアウトで、キーポーズは原画ではないから大雑把な動きしかわからない。さらにタイムシートも付いていなかったりする。
初めは原画にならなかった残りのレイアウトのキーポーズは原画マンに戻してラフ原画(!)にしてもらったり演出や作画監督が絵を足して編集に対応する事で、ギリギリ何とかなっていた。
しかし、それも量が多くなると対応しきれなくなり、であれば最初からラフ原画を描いてもらった方が良いじゃないか、というような流れで急速にレイアウト・ラフ原制度に変わっていった。
その他にキーポーズだけに作画監督が修正を入れるケースでは、まともな原画マンであれば良いのだが作画監督の修正があるところだけしか形が描けない、あるいは第2原画に出されて、やはり修正のあるところしか拾えない、あるいは修正のあるところすら拾えないみたいな事態も起こるようになっていったのも一つの要因という気がする。
他にも理由はあると思うが、大まかにはこんなところか。
みんな現行の体制に慣れきってしまっているので、修正は難しい問題が横たわっていると思うが効率良い制作体制は考えないと辛いばかりというのはそうだろう。
アニメーションの動きのガイドブック、は動画協会でやっているアニメーションブートキャンプというワークショップの内容をまとめたものだ。まだちゃんと読んでないが…。
単純な作画の技法書というよりは、劇団なんかがやっている役者へのワークショップに近いものがある、と思うし実際参考にしているようだ。
作画以前の演技とか人に伝えるとは?みたいなことを扱っていて文章多めで技法書っぽくないのであるが、これは意外と面白い。
スタジオで新人に何か教えるような事がある人は読んでおくと参考になると思う。
作画だけでなく色んな職種の人が読むといい。
デジタル環境が整えば商業アニメも、もう少し表現の幅が広がると思うのだが、そこまでいくにはまだだいぶ時間がかかりそうだ。
遊びで試行錯誤する時間があるといいのだけど…。
カテゴリー: diary
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今週読んだ本とか【2024年7月14日】
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暑さが身に染みる【2024年07月07日】
急激な暑さが襲ってきた今日この頃。
少し外に出ただけで、くらくらと眩暈がしてくる。
植物も日にあたりすぎると弱ってしまうものは日陰で過ごさせたりしなければならない。
もう日本は亜熱帯のようだ。
滑り込みでオッペンハイマーを見た。
都内の劇場だともう終わりかけだが新宿東宝のIMAXでやっていたので仕事帰りに見に行った。
仕事帰りに3時間の映画は、ちとしんどいな…と思っていたが意外と集中して見られた。
音響のイメージがかなり重要な作品だったのでIMAXで見られたことはラッキーだった。
原爆作成の過程から完成辺りは、微妙な気分になるのだが、人間の奇妙さのようなものをオッペンハイマーを通して良く描いている。
単なるドキュメンタリー的ではない手法で人間の内面と表層を表現していて面白かった。
史実的なところはダイジェスト的な作りになっているので、本などを読まないと良くわからないことも多々ある。
反戦映画という訳でもなく、かなり変わった趣向の映画だと思った。
最近、臨床心理の本を読んでいるせいか子供の頃のことをポロポロ思い出したり考えたりするのだが、それとも重なるような映画だ。
映画を見た以外は仕事ばかりで書けるようなこともない。
一つあった、アイカツ!のスタッフだった人と今やっている現場で顔を合わせた。
元気にやっているのがわかるのは嬉しい。
もうしばらく仕事漬けなのは致し方ない。 -
園芸勉強中【2024年07月01日】
WordPressを使っているのだけれどブログにもAIアシスタントが付いている。
スペルチェックとか要約とかやってくれるということかな?
7月だ。
梅雨に入ってから、あまり梅雨らしくないような気がする。
藤井聡太がついに8冠の一角を伊藤匠に明け渡した。
羽生も7冠を保持していたのはそう長い期間ではなかったが、藤井聡太は
一度くらいは全部防衛するかと思っていた。
タイトル戦で敗れたのはこれが初めてなのだから、凄いことなのだが。
家で本を読む時間がないので携帯で読書。
また東畑開人の「なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない」
途中だけど今井むつみ・秋田喜美「言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか」
「なんでも見つかる…」はカウンセリングとはどんなものなのかが事例風の物語を使ってわかりやすく解説されている。途中の女性事例のオチはよく出来すぎていて、おお…と感動した。
事例といっても守秘義務があるわけだし、かなり創作な筈だがよく出来ている。
先週は細々と予定が詰まって忙しかった。
なかなかまとまった時間がとれず、仕事の進みは芳しくない。
最近は園芸YouTubeばかり見ているので人のうちの庭が気になる。
狭い玄関先でも偉い凝ったことをやっている人がいたり庭先に植わっているの樹木や花が気になったり。
多少分かるようになると面白いものだ。
ちょっとした移動の時の楽しみになっている。
玄関先の雑草取りさえ楽しい。
自分でも鉢で何か育ててみたいが…。 -
お仕事ヒーリング【2024年06月22日】
東畑開人「野の医者は笑う」をザーッと読んだ。
面白い。
東畑の沖縄在住時代に沖縄の様々なヒーラーについて調べた話でとても軽い筆致で書かれているので異常に読みやすい。
そして登場する人たちが皆んな魅力的だ。
「野の医者たちは癒す機会を欲している。そのことで自分自身が癒やされるからだ」
果たして自分も半分ヒーリングのために仕事をしているように思える。
かつてアニメに癒されたように他人を癒したい、他人を癒すことそのものが自分の癒やしにつながっっていると言う訳だ。
いろんな仕事であるあるの話だと思うが、実際アニメ業界のクソ安いギャラで皆んなが作品を作り続けてきた原動力は自分自身への癒しの効果に他ならないのではないだろうか。そう思うと色々と合点がいく。
庵野秀明もエヴァは自分と皆んなの癒し(金儲けとかも含めて)のために作った、みたいなことを話していた。(だが、さらに鬱が深まったとも言っていた)
作っている最中は、いつもこんな面倒なことやってさらに金も儲からなくて何でこんなことをやっているんだと思うことは1度や2度ではない。が、出来上がった作品が案外良くできていたりするとすぐに忘れてしまう、とまでは言わないが怒りがスーッと冷めていってしまうようなことはある。
癒し効果が絶大だったからこそ、労働環境が何十年も蔑ろにされ続けてきたと言う側面もあったのではないかと思わざるを得ない。
90年代あたりまではアニメ文化は作り手も受けても若者が担っていた。
だからこそ、そのような状況で耐えられたのかもしれない。
しかし、作り手たちはどんどん歳を取り、仕事の癒しの効果も劇的に低下しているものと思われる。
アニメ業界・高齢化問題は非常にやばいと思う。
やばいからといってすぐにどうこうなるものでもなく、アニメ業界のでだけの問題でもない。
明日はJAniCAの総会。JAniCAは多少なりとも労働環境の改善に果たした役割は大きいと思うものの、時代の変化のスピードは上がるばかりで全てに対応するのはとても難しい。
本の中に出てくる野の医者たちの多くは、困難な人生を生きている。そこには何か共感するものがあり、愛おしくもなる。 -
Hard days【2024年06月17日】
先週も黙々と仕事。
とある会議で雑談中、北米で受けてるアニメが日本と違い過ぎるという話。
ファンタジー系、ジャンプ系は根強い人気で、日本ではあまり話題にならないアニメが
配信などの上位に食い込んでいるとのことでランキングを見せてもらいつつ、なるほど。
国が違うんだから、そりゃあ人気作品が違うのは分かるのだが何が受けているのか皆んな肌感で
分からない。
アニメも漫画も、かなり海外のマーケットが大きな割合を占めるようになった今、クリエーターが
感覚的にお客さんの面白がっている勘所を掴めないというのは宜しくない。
しかし、ファンとコミュニケーションを持つ機会もなかなか無い訳だしどうしたものだろう。
マーケットが拡大していけば、良くも悪くも共通言語は増えていくのだろうけど、どこまでいっても
根本的な文化は違うわけで。
ハリウッド映画のように巨大なマーケットができたとしても、今海外映画が振るわなくなっている
ような状況になることは、いつでも考えうる。
よく分からないけど受けている状況というのも、それはそれで面白くて分からないままでいた方が
面白いかもしれない。
文化は平気で国も人種も超えていく。
最近人気になった某ちょいエロアニメのグッズを中国のファンが大量買いしていくらしいが、彼らは母国の税関を通れるのだろうか。おたくのエネルギーは、どこでも変わらない。
セクシー田中さん問題についても色々話したり…。
原作とアニメ現場で概ね上手くいっているところが多いとは思うのだが、上手くいっていないところもやはりあるようで。
なにはともあれ楽しく仕事が出来るよう願うばかりだ。
仕事の話はすぐ終わった。 -
こころ【2024年06月10日】
夏目漱石の「こころ」を仕事絡みで読んだ。
恋愛のもつれで友人に自殺された男が心を釘付けされていた、という話。
心が釘付けで体が動かないというのはよくわかる。
まだ読み始めてばかりだが、伊藤亜沙の「体はゆく:できるを科学する」は心を体が超えてゆくという話。
体が超えていくというのは、歳を食って分かるようになった気がする。
意識していることしか出来なかったら新しいことは出来ない。出来るようになるというのは体がひょいと動くようになってしまうことで、それとテクノロジーの関係というのが、この本の肝らしい…まだ読み始めたばかりなので良く分かっていない。
心と体のバランスで人は進んでいく、というのはそりゃそうなのだろうけど、大体の人間はどちらかに偏っているから上手くいかない。
私は、どちらかというと頭でっかちで体が動かない派だった。
けど、歳を食って少し変わった気はする。別に運動するようになったわけではない。
絵を描くにしても体を動かして分かることが随分ある。
逆に動かしてみないと分からないことが沢山ある。
もう少し若い時に、こういうことに気づけていればね、と思うけど、そしたら違う人生だったんだろう。
今は気楽に体を動かそうと思えるので、昔よりやりたいことが増えたかもしれない。
もちろん人生はもう長くないので凄く何かが上手くなったり、することはない事は分かっているのだが年老いた体なりに楽しめることは色々あろうと思う。
夏目漱石、あまり読んでないし、とてつもなく久しぶりに読んだが、文章の読みやすさに驚きを感じた。
そして53歳になった。 -
評伝を使って世代を語る【2024年05月27日】
webちくまで富野由悠季の評伝を藤津亮太氏が書いている。
これがとても面白そうだ。
面白そうだというのは、まだ連載2回目までだからだけど2回目でやろうとしている事が大分見えている。
よくあるやり方ではあるけれど、富野由悠季を語ることによって70〜80年台のアニメの諸々の歴史を語ろうという事だと思う。
これはとても面白い試みだ。
富野さんは本人のキャラも相まってかあまりまともに語られてきた印象がない。
第二次アニメブームの頃の歴史的な流れも実は真正面に語られてきたことはあまりないように思う。
氷川さんがロボットアニメの歴史を概観するようなものや、サブカルチャーの中の文脈として語られるくらいしか知らない。
藤津さんは大分前から評論家的な態度を取ろうとしてきたと思うが、その実仕事としてはライター的な仕事が多くて読んでいると歯痒さを感じていた。
アニメ誌などライター仕事というのは提灯記事的なものにならざるを得ない。
しかし、今回の文章は何か吹っ切れたような印象もあり藤津さんの代表作になることを期待させる。
良い批評は作品の質も向上させると思う。
漫画はある程度それが叶っている。
アニメも良い批評があった方が良いと思うが、儲からないだろうなとも思う。
80年代あたりまではアニメ誌でも批評的なことは行われていて読まれていたと思う。
しかしいつしかライトな記事だけになりキャラについてしか語られなくなった。
私がインタビューなどで答えるときもキャラに関する質問が多くて、メタ的な作り手の内部に踏み込んでくるようなことはほとんど聞かれない。
聞かれてそれがあるという訳でもないけれど。
50年近く経ってやっと、あの頃のブームや何が起きていたのかという事が語られそうな予感がしてワクワクしている。アイキャッチ画像そろそろ替えるか…。
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来月辺り告知が出来る…らしい【2024年05月25日】
1週間が経つのが早い。
先週は、お久しぶりな人たちと会って、今週はお久しぶりな人から連絡が来た。
なんと無くそういう時期なのかもしれない。
たまーーーーーに、コンタクトフォームから仕事の依頼がくるのだが今日も久しぶりに来ていた。
当然知り合いではないので新鮮味がある。
今の所、来たことのあるのは各話演出の仕事だけ。
今は各話演出の仕事は、基本的にお断りしている。
いやーー、各話演出を探すのは大変だろうなというのは自分の現場を見ていれば容易に分かる。
私は長いこと各話演出の仕事をしていた。初監督の後もしばらく引き受けていたので20年くらいはやっていたと思う。
昔から良い各話演出というのは不足しがちである。
私の世代前後だと、少し能力のある若い演出はすぐに監督に引っ張り上げられてしまっていたので中間の厚みは、いつも薄かった。
不運なことに私の前後2歳くらいの人たちは、力があっても監督になるのにえらく時間がかかった人が多い印象だ。
前後5歳くらい離れた人に華やかな人が多かった、ということもあるし、景気のせいで仕事の波が自分のキャリアとうまく噛み合わなかったという側面もあるように思う。
が、各話演出の時代の経験は、かなり生かされている。
長く各話演出をやっているような人は稀で、今は特においそれとは確保できないだろう。
どんどん高齢化もしているし若くてキャリアのある各話演出は本当に探すのが難しいと思う。
昨今スケジュールが長期化していることもあり、1年で経験できる本数は少なくなっている。
なので、若いうちに沢山数をこなすのが難しい。
スケジュールがかなり長期化して人材の確保も難しくなっているのにも関わらず、私のところにきた仕事で提示されていたギャラはそれほど上がっていないことに驚く。20年前の1.5倍くらいかな。
実際には拘束費を払っている会社が殆どになってきたので、もっと上がっているとは思うのだが、それなら最初から単価で提示するのを止めればいいのにと思う。
私が仕事を始めた30年くらい前は、まだアメリカは景気が良く合作と呼ばれる日本では放映されないアメリカの制作会社の仕事(有名なのはバットマンとか…)が結構あって、その予算は当時の単価から推察するに日本の予算の2〜3倍はあったのではないだろうか。(調べれば何か文献がありそうだけど、調べてない)
またそういう時代が来るのかもしれない、もう来ているのかもしれない。全然関係ないけれどAdobeのFireflyで、ほうれん草のおひたしが付け合わせで乗っている焼き鮭の皿という画像を生成しようとしたらほうれん草が生クリームのソースとなって焼き鮭の下に敷かれている画像が出来て笑ってしまった。モデルのバイアスのせいか日本食の画像の生成は難しいらしい。
使い勝手は、まだまだだ。
来月辺り監督作の告知が出るらしい。
ちゃんと働いています。 -
実務の感想(まだ途中)【2024年5月22日】
レイアウトのアニメーターの質は、昔とそれほど変わっていないのかなと思ったけれども、作画監督、原画は少し様相が違うのかもしれない。
原画はレイアウトを描いた本人が描くという割合が少なくなっている、ようだ。と曖昧なのはまだ終わっていないので全体像がわからないからである。
しかし、なんでこれを第2原画に撒いているのか分からない、という例を見た。
それほど上手くも無いレイアウトが時間はあった筈なのに2原に撒かれているのは何故なのだろうか。
他の仕事が詰まっていて出来なくなった、とか。
良く分からないが自分で原画までやらずに上達するのは難しいだろう。
作画監督は1話数に何人も投入されていて、当然その力量は大きくばらつきがある。
上手い人は上手い。
しかし、この人は明らかに力量不足なのではという人がいる。
昔からそういう人は居たのだけれど、これだけ作画監督の数が必要とされているということは当然力量のある人が足りなくなるわけで、だからということかもしれない。
作画監督と呼ばれる役職の仕事が昔とはかなり違っているのだろうか。
久しぶりに各話演出をやってみると発見が色々ある。
嬉しい発見、は少ないのだが。 -
絵が上手いとは…?【2024年05月21日】
絵が上手いとは、どういうことなのだろうか。
とたまに考える。
下手ではないのだけれど、演出意図を汲めていなくて結局かなり描き直しをせざる得ないという人がいて先週はだいぶ手こずった。
アニメーターに対して絵が描けていない、などという評価は仕事をしているとよく耳にしたり自分で言うこともあるのだが、これには大きなグラデーションがある。
パースのような立体・空間が描けない、キャラクターのいわゆるキャラ似せと言われるようなキャラクターの特徴を捉えるのが上手くないとか、絵コンテに書いてある演出意図が汲めていないなど相互に関係しながらも違った要素で描けないということを分けられる。
絵を描く目的としては、誰かに何かを伝えるということが主眼にあることがほとんどだと思うのだけど裏返すと伝えたいことさえ伝われば良いと言える。
さて、伝えるために必要な絵には、どういった技術が必要かということを考えるとなかなか難しい。
透視図法を完璧にマスターしていれば伝わる絵が描けると言うものでもない。
今のアニメーターというかアニメーションに求められている絵の主流は基本的に立体・空間を表現するというところにある。
キャラクターも擬似ではあっても立体を表現するような造形とその再現が主流になっている。
これはCGアニメーションが得意とするところなので、CGアニメーションの隆盛も頷ける。
むしろ手描きのアニメーションで正確な立体・空間を表現するのは非効率的と思える。
また同一のキャラクターを破綻なく物語上で描き続けるというのもCGの方が得意である。
CGではモデルを一つ作れば、それを担当アニメーターが使えるので基本的にキャラクター造形の同位置性が担保される。
同じモデルを使っても角度などによって随分キャラクターの顔の造形が変わって見えるという問題がCGにはある。
こいうものは手描きが得意である。
得意ではあるが、人によって解釈や理解、再現度が違うのでばらつきが大きい。
最近のアイドルアニメがCGによる制作が多くなってきたのはバラつきのリスクが手描きよりCGの方が小さいと見られているからだろう。
昔からではあるが、昨今制作本数の増加によって均一な力量を持ったアニメーターを集めるのはかなり難しくなっている。
キャラクターが似ていないということは、我々が作っているようなアニメーションにとってどういう意味があるのか。似ていなくてもお話を伝えることは可能だ。
話を伝えるというだけなら、絵の描けない演出家が描く絵コンテの絵でも意外と伝わるものだし、漫画家の描くネームもかなり大雑把な絵で描かれているが、それでも伝わるのであれば、それで必要十分とも言える。
しかし、絵コンテがそのまま放送されることは無いしネームも雑誌には載らない。
今はとにかく人材を育てるのだ、という方向でアニメ業界は進んでいる。
それは良いと思うのだが良い絵とは何かということについて、深く考えられてはいないし、将来粒ぞろいのアニメーターが沢山現れるということも考えにくいように思う。
工業製品のように手書きアニメのキャラクターを生産するのは難しい。
私的には今求められているようなものとは全く違う絵の表現で何か出来ないか、と考えてしまう。