実務の感想(まだ途中)【2024年5月22日】

レイアウトのアニメーターの質は、昔とそれほど変わっていないのかなと思ったけれども、作画監督、原画は少し様相が違うのかもしれない。

原画はレイアウトを描いた本人が描くという割合が少なくなっている、ようだ。と曖昧なのはまだ終わっていないので全体像がわからないからである。
しかし、なんでこれを第2原画に撒いているのか分からない、という例を見た。
それほど上手くも無いレイアウトが時間はあった筈なのに2原に撒かれているのは何故なのだろうか。
他の仕事が詰まっていて出来なくなった、とか。
良く分からないが自分で原画までやらずに上達するのは難しいだろう。

作画監督は1話数に何人も投入されていて、当然その力量は大きくばらつきがある。
上手い人は上手い。
しかし、この人は明らかに力量不足なのではという人がいる。
昔からそういう人は居たのだけれど、これだけ作画監督の数が必要とされているということは当然力量のある人が足りなくなるわけで、だからということかもしれない。
作画監督と呼ばれる役職の仕事が昔とはかなり違っているのだろうか。

久しぶりに各話演出をやってみると発見が色々ある。

嬉しい発見、は少ないのだが。

絵が上手いとは…?【2024年05月21日】

絵が上手いとは、どういうことなのだろうか。
とたまに考える。

下手ではないのだけれど、演出意図を汲めていなくて結局かなり描き直しをせざる得ないという人がいて先週はだいぶ手こずった。
アニメーターに対して絵が描けていない、などという評価は仕事をしているとよく耳にしたり自分で言うこともあるのだが、これには大きなグラデーションがある。
パースのような立体・空間が描けない、キャラクターのいわゆるキャラ似せと言われるようなキャラクターの特徴を捉えるのが上手くないとか、絵コンテに書いてある演出意図が汲めていないなど相互に関係しながらも違った要素で描けないということを分けられる。

絵を描く目的としては、誰かに何かを伝えるということが主眼にあることがほとんどだと思うのだけど裏返すと伝えたいことさえ伝われば良いと言える。
さて、伝えるために必要な絵には、どういった技術が必要かということを考えるとなかなか難しい。
透視図法を完璧にマスターしていれば伝わる絵が描けると言うものでもない。

今のアニメーターというかアニメーションに求められている絵の主流は基本的に立体・空間を表現するというところにある。
キャラクターも擬似ではあっても立体を表現するような造形とその再現が主流になっている。
これはCGアニメーションが得意とするところなので、CGアニメーションの隆盛も頷ける。

むしろ手描きのアニメーションで正確な立体・空間を表現するのは非効率的と思える。

また同一のキャラクターを破綻なく物語上で描き続けるというのもCGの方が得意である。
CGではモデルを一つ作れば、それを担当アニメーターが使えるので基本的にキャラクター造形の同位置性が担保される。

同じモデルを使っても角度などによって随分キャラクターの顔の造形が変わって見えるという問題がCGにはある。
こいうものは手描きが得意である。
得意ではあるが、人によって解釈や理解、再現度が違うのでばらつきが大きい。
最近のアイドルアニメがCGによる制作が多くなってきたのはバラつきのリスクが手描きよりCGの方が小さいと見られているからだろう。

昔からではあるが、昨今制作本数の増加によって均一な力量を持ったアニメーターを集めるのはかなり難しくなっている。

キャラクターが似ていないということは、我々が作っているようなアニメーションにとってどういう意味があるのか。似ていなくてもお話を伝えることは可能だ。
話を伝えるというだけなら、絵の描けない演出家が描く絵コンテの絵でも意外と伝わるものだし、漫画家の描くネームもかなり大雑把な絵で描かれているが、それでも伝わるのであれば、それで必要十分とも言える。
しかし、絵コンテがそのまま放送されることは無いしネームも雑誌には載らない。

今はとにかく人材を育てるのだ、という方向でアニメ業界は進んでいる。
それは良いと思うのだが良い絵とは何かということについて、深く考えられてはいないし、将来粒ぞろいのアニメーターが沢山現れるということも考えにくいように思う。

工業製品のように手書きアニメのキャラクターを生産するのは難しい。

私的には今求められているようなものとは全く違う絵の表現で何か出来ないか、と考えてしまう。

随分間が空いてしまった。デジタル環境などについて思う事【2024年05月15日】

相変わらず切羽詰まっていて、ブログなんか書いてないで仕事しろよと思われそうな状況が続いている。
今月を抜ければ少しはマシになるかもしれないが。

久しぶりに演出の仕事をしている。
世間というか業界人は作品数が増え過ぎて、スタッフのレベルが下がったという人が結構いるが私自身はそれほど変わりないと感じている。
私の担当は初回だしメンバーもそれなりに気を遣っているということは言えると思うが、いい感じというわけでも悪くもなく、まあこんなもんだろうなというアベレージのスタッフクオリティだ。
もちろん下を見ればキリがないだろうし上もまた同じ。
業界をくまなく見て回っているわけでもないけれど、今仕事をしている制作会社のランクでこのくらいのスタッフということから全体を推察するに、むしろ悪くない、という程度に落ち着いている様に思う。

長い間、クオリティーの高い現場で働いていた人から見れば、多くの現場はいつでもレベルが低いだろうし、レベルの低い現場しかし知らない人にとっては、やはり現場は常にレベルが低い。
私は、あまり作画が凄くいいという現場は知らないが、それでも標準より上は見ていると思うし下もまたそれなりには知っているとい平均的なレベルのスタッフとして30年ほど働いてきたという自覚があるが、その感覚からすれば平均レベルはあまり変わらない、むしろ良くなっているのではないかと思う。

1話数の中にも凄く上手い人とすごく下手な人というのは常にいて(下手にはいろんな理由があるが、とりあえず置いておく)その感覚が上の方に傾いて差異が小さい(つまり上手い人がいて下手な人が、それほど下手ではない)ほどスタッフのレベルは高いと言えるのだが、今やっている仕事は私の感覚的には中の上くらいというレベルなので制作会社の規模を考えるとかなり健闘していると言える。
この制作会社で、このスタッフが集まるのなら業界全体のレベルは満更でもない。

これ以上、作品のクオリティやスタッフの待遇を改善していくためには、制作の効率化などの人的な問題以外の問題を潰していくしかない。
20年ほど前のデジタル環境の導入は大きなトレンドだったが、道半ばで止まり、技術的な制作環境の変革は遅々としている。
もう既にある技術でも色々な可能性があるが、日銭を稼ぐのに精一杯で新しい試みにのり出せているスタジオはわずかだ。
日銭を稼ぐのに汲々としているスタッフとそれなりの収入があっても新しい技術に前向きではない人たちが変革の足を引っ張っている。

業界で出資をしあって作画ソフトを開発するだけでも、大きく生産性は上がる可能性はある。
しかしその様なことが起こる可能性はかなり低い。

AIはもっと個人レベルで、そのような制作環境を大きく変えられる可能性があるので私はかなり期待している。
来年以降になれば映像でも仕事に使えるレベルのAIが出てきそうだ。
今もあるのかもしれないが、権利や倫理などの問題が大きく横たわっているので簡単に出せないという事は考えられる。

私はフルデジタルで仕事をする様になって10年ほどになるが、デジタル環境になってもかなり非効率な作業の仕方を強いられていると思っている。
デジタル環境の可能性の半分も享受できていないのではないか。
もっと制作効率が上がれば個人の時間も増え、より良い作品作りに資するだろうと思う。

繁忙【2024年04月30日】

4月は忙しくてこれを書く暇もなく記憶が脱落している。

仕事は少し予想はしていたものの、てんやわんや。
若い頃ほど体は動かないので、出来ないものは出来ないのだが。
ある程度知っているスタッフと作品もシリアスではないので気分が重いわけではない。
そして久しぶりに演出の仕事を引き受けている。
ちょっとした、やり方やコツを忘れていたりして余計な時間がかかっているが、手を動かすうちに思いだしてきている。思い出したからといって体がついて来ているわけでもない…。
昔の様に放送に追われて落ちたら違約金か…というような状況は今はほとんどない、と思う。
(なんか改行が変…。というかSHIFTを押しながら改行すれば一段空かないということを今学んだ。)
なので、切羽詰まっているものの、なる様にしかならんだろうで済ませている。

とにかく人手不足な状況は解消される見通しがないのでAIの活用は必須になるだろう。
とはいえ、映像だとまだHDの出力もハードルが高い様なので仕事で使える様になるには時間がかかるかもしれない。
遊びで触りたいけれど、いつになったらそんな時間が取れるのか分からない。
adobeのfireflyを少し試してはみた。猫の画像を作ってみたがあまりに簡単で面白い。
自分の狙った画像が出すのは難しいので、かなり工夫が必要そうだ。

音楽も浸って聴く時間がないので昔の曲ばかり流している。
Youtube musicのおすすめで出てくる新しい曲は当たりの確率は低い。

Youtubeで園芸チャンネルばかり流している。
アジサイが欲しいけれど買いに行く暇がない。
もうシーズンが終わってしまう。
狭い庭でも鉢などで結構色々出来そうで、映像で出てくる庭はどれも魅力的で癒される。
やりたいことが溜まっていくばかりで、どうしたものか。

現代美術館でやっているホー・ツェーニンも見に行きたい。
オッペンハイマーもチケットは買ったものの、タイミングが掴めない。

頭がまわらない。
まずは仕事を終わらせよう。

春だから【2024年04月06日】

SNSを見ていたら、春を期に事務所を退所したという人が増えていた。
業界を辞める人もいるし、移籍するだけの人もいる。

かつて一緒に作品を作った仲間で業界を去る人に対しては、いつも少しだけ申し訳なさを感じる。
自分の作品にもう少し力があれば続けられていたのか、とか制作環境がもう少しマシだったら良かったのか…とか。
色んな事情があるので、それはこちらからは知り得ないし、一個人が力になれることなど少ないのだが。

私もいつ辞めても構わない、と思っていた。しかし他に出来る事もなくズルズルと続けてきたような質である。

我々の様な仕事が続くかどうかは半分くらい偶然なのかもしれない。

業界の労働環境を改善しようとみんな頑張っているが、労働環境の問題と仕事が続くかどうかは別の問題という面もある。

どんな仕事でも向き不向きはあるし、やってみて初めて向いてない事に気づくということもある。

気づいたら早めに方向転換できた方が良い。

環境が良ければ花開いたのかもしれない才能を持った人はたくさんみてきた様に思う。

しかし仕事の才能があっても、それが人生の幸せに直結しているわけでもない。

どういう選択が自分にとって良かったのか、人間には選択した後の人生しかわからないので知る由もないが、なるべく後悔がないと良いとは思う。

やらずに後悔するよりはやって後悔する方が後悔の度合いは少ない…ような気はする。

新しい道に幸あれと、若人の背中を見つめながら祈るばかりだ。

そろそろ春【2024年04月01日】

長男猫を病院へ連れていく。

血液検査の結果、腎機能が衰えてきているとのこと。初期の腎臓ケア用の食事を検討。

歳をとると腎臓が弱るのは猫では良くあることで先に旅立った猫たちも腎機能の低下が大きな原因で逝った。

水をたくさん飲ませるのは基本だけれど、なかなか難しい。

陶器の器を好む、噴水みたいな給水器も好き、ということで先代猫のいる時代から導入はしているが、猫は基本的に舌でペロペロと舐め取って飲むというスタイルなので人間の様にはたくさん飲めない。

最近、ジェルタイプで少し味のついた経口補水剤が出てそれも好むのでなるべく使うこととする。

腎臓ケアの食事は膵臓に負担をかける可能性があり、一長一短ということらしいが、腎機能が明らかに落ちているということなので先ずはそこからの対処になるのは仕方あるまい。

若い猫たちとの食事の食べわけが非常に難しいが、時間を決めて人間の見ているところで食べてもらうしかなさそうだ。

猫も人間も歳を取れば体の維持に手間がかかる。

できるだけ快適に人生を送らせてやりたいものだ。

久しぶりに自分の作品だが演出を担当する事になり、明日は打ち合わせが入っている。

一体何年ぶりなのか…。

アイカツスターズ!のコラボ回を担当して以来かもしれない。

演出というのは半分体力勝負なので、ちょっと不安ではあるのだが、なんとかやりきれることを祈りたい。

現場のアニメーターとコミュニケーションする機会も最近極端に減っているので、いい機会かもしれない。

ビヨンセがタワレコでサイン会をやったのが話題になっていた。

まあ、思いつきで決めたのだろうけど実行したのは周りも含めて凄い。

日本じゃなければ逆にあんなサイン会出来ないのだろうが。

リズムが面白いということでVijay IyerのHuman Natureを聞く。

2010年の曲。

散髪【2024年03月28日】

髪を切りすっきり。ひさしぶり。

美容師のお兄さんにビールを献上。大変喜んでくれた。

最近はお酒が飲めず大量に余っている。

体調は上向いてはいるものの、まだしばらくお酒は控えるつもり。

3月も後半で少しづつ暖かくなってきているのでありがたい。

寒い時期は何かしら体調が崩れがちなのは歳のせいで致し方ないのだろう。

シラスで山﨑孝明という心理療法士(どうも定義が難しいらしい)の精神分析についての講義をみる。面白かった。

エヴァは精神分析の用語が沢山引用されているようだが山﨑氏はエヴァをきっかけに精神分析にはまったらしい。

フロイトは興味ありつつ手が出ずにいたのだが、藤山直樹の集中講義・精神分析は買ってあったので、ざっとでも読んでみよう。

山﨑氏の精神分析は文学という言葉が刺さった。

以前は精神科の診療はカウンセリングも一体なのだと勘違いしていたが山﨑氏の「精神分析の歩き方」で随分違うことを知る。精神科の医療は基本的に物理。

カウンセリングも精神分析も現状は医療行為ではなく保険が効かないので高い。

そもそも精神分析を医療行為ではないと考える精神分析家(日本に数人しかいない)もいるようだ。

カウンセリング、精神分析的心理療法は精神分析を実際の臨床治療に応用するというものだが、その内実の腑分けは難しいので山﨑氏の本など読まないとわからない。

心理療法をやっている人たちにも良し悪氏があるようなのだが、使う側にとってはかなり見えずらい世界。

医療としての精神分析はともかく、物語の中のキャラクターを考える上で精神分析は非常に有用そうだ。

ハリウッドの脚本だと当たり前のように精神分析の考え方が使われているとも聞くが実際はどうなのだろう。

オッペンハイマーは見に行こうかと思っている。

ノーランの映画は長くてラストの方でいつもトイレに行きたくなるのだが、頑張ろう……。

今回も3時間あるとか。

今日は会議だ。

読書日記「文学のエコロジー」【2024年03月27日】

山本貴光さんの「文学のエコロジー」読了。

文学の中に書かれていることをコンピューターのシュミレーションの要素として読み直す、というのが主な企み。

言われてみれば、仕事では原作や脚本などをシュミレーションし直す様な読み方はしているのだがシュミレーションという言葉で考えたことはなかった。

前半は事物、時間など物質的なことを取り出して解析。

後半は紙幅を割いて、心に関する描写についての考察。前半に比べると抽象的なテーマだが、それがAIへと接続されて現代の問題として語られていて大変面白かった。

最終章の文学のイメージは読者との共同作業の中に現れるという事についての考察は、全くその通りだと思う。

文学以外でも物語を扱った何かに敷衍できる内容で大変面白かった。

山本さんは同い年だけれど博覧強記の人で、同じ人間とは思えない。

なかなか本を読む時間がとれないけれど読みたいものが溜まっている。

楽しそうなAI【2024年03月24日】

AI面白そう、などと言っているとSNSでは吊し上げに合いそうだが、やはり面白そうである。

画像、動画の分野だとまだやれることは大分限られている印象だけど、実験的にAIを使った映像を見ていると現状でも工夫すればかなり面白そうなことが出来そうだと思う。

かなりワクワクする。

数年後にはAI抜きの制作は考えられなくなるんじゃないかと言う印象がある。

このまま色々AIが進歩したところで何でもかんでも出来る様にはならないので、基本は人間との共同作業だろう。

使い方次第で色々なことができる様になりそうだ。

AIを使った映像を見ていると、今まで以上に映像のアニメーション化が進む様に思う。

現状、動画生成系のAIに求められているのはフォトリアルな映像を作れる様になるということの様だ。

この方向で進化したとしてもアニメーション化していく。

アニメーションとは何かと言う定義はどんどん拡張していて、CG映像をアニメーションとした時からフォトリアルな映像は、とうの昔からアニメーションのカテゴリーの中に内包されてしまっている。

ライブアクションとアニメーションの違いは、現実の『時間』を映しているか、そうではないか位の大雑把なカテゴライズになってしまった。

現状のAIの映像を見ていると人の手が入っているのは明らかで、それは非常にアニメーション的だ。

特にCGを使った映像に似ているものが多い。

そう遠くない未来に現実と見まごう映像が可能になることは間違いない、というかCGにだって現在それが可能だしフェイクのようなAIを使った映像も既にある。

ライブアクションとそれら映像の違いが見分けることが、やり方によっては非常に難しくなる。

しかし、概ねの作り手が求めるのは、そう言うものではなく、フォトリアルであってもアニメーション的なものになると思う。

そうなって手描きのアニメーションは何をやるのかな?ということについて考えるのは面白そうだ。

AIを使えば手描きの様な手描きではないアニメーションも可能になるので、人間の役割も作品によっては大きく変わっていくだろう。

アニメーションを作るのには何と言ってもとてつもない時間がかかっていたのがもっとお手軽な表現として作れる様になるかもしれない。

結局アイデアが一番重要ということになる。

10th再上映【2024年03月22日】

昨日でアイカツ!10thSTORYの再上映も終わり観てくれた方には深く感謝。

ゆるゆるとアイカツ!界隈は何か続いていきそうなので、のんびり待っていただきたい。

わざわざ、コンタクトフォームからファンレターをくれたお嬢さん(JKと書いてあったのでお嬢さんであろう)、ありがとう。

10年もたった作品に対して愛情を示して貰えるのは制作者冥利に尽きるというものだ。

あの映画については前に色々書いてしまったので、もうとくに言うこともない。

繋がった映画の形態で見られるのは映画館か配信なので、たまに映画館でやってくれると良いのだが。

つい先日、ジャネット・ジャクソンとTLCが共演するという神ライブをやっていたが、知り合いのオールドファンたちは大満足だったようだ。

若い頃に見たもの聞いたものは、やはり強烈に体の中に残っていて、いつまで経っても力を与えてくれる。

不思議だなとも思うけど、創作の仕事に関わってるような人も子供の頃や若い頃に得た初期衝動の勢いだけで歳をとっても動いてることは多いと思う。

アイカツ!も初期衝動についての物語だ。

アイカツ!に限らず沢山の作品で繰り返されている永遠不変のテーマだと思う。

私もいまだに子供の頃の初期衝動だけが力の源泉だけれど、職業選択は半分偶然で続けられているのも半分偶然だし、他の選択をしていたとしても何らか若い頃の経験が初期衝動として機能していたんだろう。

良くも悪くも若い頃のかけられた呪文は強力で、そこから逃れるのは容易ではない。

解いてしまった方が良い呪文も沢山あって、それにはプリンセスのキスのような強烈な体験が必要だとは思う。

そうでなければ解けないか、解くまでにえらく時間がかかることはあると思う。

老いると、いろんな魔法がその効力を失っていく。

そうして気づくことも沢山あって、それは楽しいことだ。

自分には出来ないと思っていたことが出来るようになってしまったりすることもある。

解けてしまわないでほしい魔法は、自分で望まなければそうそう解けないものだ。

魔法、呪文は良い面も悪い面も持っていることが常だろう。

ある時期までは自分を守ってくれていたものが、気づいたら唯の重荷になっているということもある。

芸術(高尚な意味ではなく広い意味での)作品もそれが見た人に何らかの力を与えているうちは良いが、何かの足枷や頸木になってしまうことはある。

だから私は、ひとしきり楽しんだら忘れてしまった方が良いと思う。

必要になったら体の中に刻まれた何かが思い出させてくれるんじゃなかろうか。

体の中で昇華されて残っているものが重要だ。

時を経て作品を見返すと新たな発見をすることが多い。

しかしかつてのような魔法は立ち現れず色褪せて見えることがほとんどだ。

それでもかつて魔法の呪文をかけてくれた作品は何か輝きを残している。かつては見えなかった魅力が立ち現れてくることも尋常にある。

I can cast a spell of secrets you can tell

というI’m Every Womanの歌詞のようでありたいと一人の演出家としては思う。